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礼拝メッセージより
「向き合う者」 2005年12月18日
聖書:創世記 2章4b-25節
命の息
創世記の1章には、神が6日間で天と地とそこに住むものを造ったという有名な創造物語がある。しかし2章4b節からのところにはもう一つの創造物語が出てくる。
主なる神は、土(アダマ)から人(アダム)を造られた。人は土で出来ているという。
人は土から造られた。そして命の息を吹き入れられることで生きるものとなったという。人は神に命の息を吹き入れられることで初めて生きるものとなったという。その事で只の土ではなくなったというのだ。
人は死ねばまた土に帰る。土から生まれ土に帰る、それが人生でもある。そう思うとなんとも儚い存在だ。所詮人生なんてたかだか土から出て土へ帰る間のひとこまでしかないんだからそんなにカリカリすることもないと言えなくもないわけだが、けれどもただ土から出て土に帰るだけではない、と聖書は語るのだ。人は神から、鼻に命の息を吹き入れられることで生きた者となったというのだ。人はただ土から出て、神から命の息を吹き入れられた者であるというのだ。私たち一人一人も命の息を吹き入れられた者なのだ。
助ける者
神はあらゆる木を生えいでさせたエデンの園に置かれた。何もかも準備されたようなエデンの園に住まわせ、そこを耕し守るようにされた、というのだ。
けれども神は、人が独りでいるのは良くない、という。しかし獣や鳥では人の助けとはならなかった。
人は独りでは生きていけない。人は周りの人との関係の中で生きていくものであるということだろう。そしてそのために助ける者を造った。
この助けるとは助手というようなことではなく、またお手伝いさんというようなことでもない。神がわたしの助けである、という時に使う言葉であるそうだ。
この創世記の箇所から、女は男から造られたのだから男の方が偉いというようなことを言うことがあるがそんなことはない。むしろ助ける側の方が優れていないと助けにはならないと考えた方がいいらしい。
人のあばら骨から女を造ったという。肉体を二つに分けたようなものだ。ということは、人と妻は両者で一つ、二人が一緒にいて完全な人間というような、そういう存在ということだろう。片方がもう一方を支配しているというような関係ではないということだ。どっちかが偉いという関係ではないということだ。お互いに補い合う関係、一緒に生きる関係、というようなことだろう。
だから、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる、というわけだ。
ということは人は一人だけでは足りない、生きていけない存在だということでもあるということだろう。人はだれでも足りなさを持っていて、その足りないところを互いにカバーし合って、補い合って生きるように、そういう風に造られている生き物なのだ。
補い合うために、助け合うために人はみんな違うように造られているようだ。みんないろんな違いを持っている。みんなが同じことが出来るわけではない。みんなが同じに感じるわけではない。
でもそれは互いに競争するために違うのではないということだ。人は誰が一番偉いか、何が出来ることが一番優れていることかと争いたがる。私はこんなことが出来る、といって自慢したり、こんなこともできないといってひがんだりする。けれども人がいろんな違いを持っているのは、助け合って生きるためらしいのだ。そんな風に神は人間を、一人だけで生きていくのではなく、助け合って生きるように造ったのだ。いろんな違う人間を造ったのだ。
今の社会は違いを認められにくい社会である。誰かの意見に対して、私はそうは思わない、ということが言いにくい社会である。違うことが悪いことのように思う面がある。そしていろんな意見があると、どっちが正しいのかということになりがちである。けれども実はいろんな意見があるということの方が健全なのではないかと思う。違うからこそ助けることができるのだ。俺の方が正しいのだ、なんて言い合っている時には助けるどころではないだろうが、私は違う意見である、私はこう思う、ということを言い合える、聞き会えるという関係にあることこそが健全な社会であるように思う。
そんな風に私たちは助け合う者として互いに存在しているのだと思う。そういう者として今生かされているのだろう。
裸
人は一人では生きていけないという。人間とは人の間に生きる者だということがよく言われる。全くその通りだろう。人は人との繋がりを持つことで生きていける。そんな繋がりを大事にしなければいけないと思う。
「人と妻は裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」という。
普通はなかなか裸にはなれない。見られたくない、知られたくないところがいっぱいある。普段はええかっこうをしていても、清く正しいように見せかけていても、内側には、このことを知られてしまったらみんなどう思うだろうか、というようなものを誰でも持っているだろう。そんなありのままの自分を知られたくない、自分の弱さや醜さを知られることを嫌う、というよりおそれている気持ちがある。いかにだめか、いかに醜いか、いかに汚いか、そんな自分のことを誰にも知られないようにいろんな服を着たり、いろんな鎧をつけたりして隠している。
しかしそもそも神が造った時に、人と助ける者とはそんな関係ではなかった。裸であることを恥ずかしいと思わない関係である。自分の弱さや醜さを知られることをおそれる必要がない関係である。隠さなくても大丈夫ということは、その弱さや醜さを卑下する必要がないということだろう。それを責められることもなかった、ということではないかと思う。
教会こそ、そんな関係を持つところでありたいと思う。いろんな弱さや醜さや失敗を互いに認め会えるところでありたいと思う。そんな弱さを出せるところでありたいと思う。私たちは神に全てを受け止めてもらっている。罪も汚れも持ったそのままの私たちを神は愛してくれている。ありのままの私たちを神は大切に思ってくれているのだ。私たちが立派になったら、信仰深くなったら、強くなったら、そうしたら大事にしてくれるのではなく、だらしなく信心深くなく弱い、そのままの私たちを神は大事に思ってくれている。だから私たちも隣人をそのままに、ありのままに受け止めていく、それが教会なのだと思う。
私たちも、きっと助けがないと生きられない者同士なのだ。関係を持たないでは生きられない者同士なのだ。助け会うというような良好な関係を持つことで初めて生きることが出来る者同士なのだ。だからどちらが正しいと言って争うのではなく、また責め合うのでもなく、批判し合うのでもなく、助け合う関係を持ちたいと思う。そして愛し合い、いたわり合う関係を持ちたいと思う。そんな風に誰かと向かい合いつつ生きていくように造られている。人は神を向いていれば、神がいれば一人でも大丈夫、というように造られてはいない。誰かと向かい合って、その人の弱さや辛さや苦しみなんかも、あるいはだらしなさや罪深さもしっかりと見つめて、その上で大切にしあって、いたわりあって生きていくように造られている。そしてそれこそが教会の本来の姿であり、教会の目的なのだろうと思う。