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礼拝メッセージより
「み手の中にある命」 2005年12月11日
聖書:詩編 90編
喪中
年末になると、喪中につき念頭のご挨拶を控えさせていただきます、というハガキが届く。その年に家族が亡くなったときには年賀状を出してはいけないそうだ。そしてその家族に対しても出してはいけないらしい。どうしてなんだろうと思って調べようとしてもなかなか明確な答えは見つからない。喪に服しているからということ位しか分からなかった。それでも喪に服するのはだいたい長くても三ヶ月なんて書いてあったりする。要するにそんなしきたりということなのかな。喪に服している時にはおめでたいことに関係してはいけないらしい。インターネットを調べたが、どういうわけでそうするのかという理由を探すのはなかなか難しい。その代わり、こう言うときはこうするのです、家族が亡くなった年は年賀状を出してはいけません、その家族に出してもいけません、間違って出してしまったときは後から失礼しましたというお悔やみのハガキを出せばいい、なんて難しいやり方はいっぱい出てる。理由よりもやり方さえ分かればいい人が多いのかな。なんで喪に服するのと年賀状とが関係するのかは結局よくわからなかったけれども、同じ所にクリスマスカードのことも書いていて、それによるとクリスマスカードはそんなことには関係ないので誰が亡くなっても出してももらっても構いません、と書いていた。おめでたいことに関係しちゃいけないから年賀状を出すな、と書いているところに、クリスマスカードは関係ないと書いている。クリスマスはおめでたいことではないらしい。
どうも日本人は死というものを嫌って排除しようとしている面があるように思う。ほとんどあってはならないことのように思っているような気がする。病気をしても、本人には病気を知らせないということが多い。死ぬことをとても恐れて嫌っているような気がする。でもそれは死が全ての終わりだという思いがあるからではないのかと思う。だからこそその死を一所懸命に遠ざけようとしているのかと思う。死はそういうものなのだろうか。死とはあってはならない異常事態なのだろうか。
塵
詩編90編はモーセの詩という題が付いているが、実際にモーセが作ったのではないそうだ。時代はもっと後、バビロン補囚から帰ってきたころに出来たらしい。苦しい時期を体験した人たちが自分達の歴史を振り返り、モーセに重なるところがあるということからモーセの詩という名前をつけたらしい。
苦難は自分達の罪の結果である、つまり自分達が神から離れてしまったことが苦難の原因だったのだと言っている。天地を創造して全てのことを支配している、その偉大な神を忘れて、その神から離れてしまったことが、苦難の原因だったと気付いた。自分達はこの神によって塵から造られ、また塵へと帰っていくものにすぎないこと、そのことを忘れてしまっていたこと、それが苦難の原因だったということだ。苦難を通してそのことに気付いた、その苦難からやっと解放されようとしている、どうか自分達のところへ帰って来てください、捨てたままにしないでください、これからは喜びを与えて下さい、この詩編の作者はそう叫んでいるようだ。
帰る場所
人間ってなんなのだろうか。この命はどこから来たのだろうか。自然に生まれてきたものなんだろうか。そして命はどこへいくのだろうか。自然と消えていくのだろうか。
聖書は、命は神が与えたものだという。神が造ったものだという。そしてその命は神のもとへ帰っていくというのだ。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」と言われている。口語訳では「主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる」となっている。もともと私たちの命は神のもとにあって、しばらくの間この世に来ているということなんだろうか。そして神が帰れと言われればまた帰っていくということらしい。聖書は、私たちの命は自然に生まれて、また自然に消えていくのではなくて、神によって造られ、また神のもとへ帰っていくというのだ。そこが私たちの帰る場所なのだということ、そんな帰る場所が私たちにはあるのだというのだ。
子どもが遊びに行って、夕方になると家に帰ってくるような、そんな帰る場所が私たちにはあるというのだ。神のもと、それが私たちの帰る場所なのだという。楽しく遊んでも、自分の帰る家がないとしたらその子どもはどんな気持ちになるだろうか。あるいはその家が自分が安らぐことができないような、憩うことができないような家だったらどんなだろうか。夕方暗くなってくるとその子は段々と寂しくなってしまうだろう。きっとその子は明るいときも心から楽しく遊ぶこともできないだろう。
私たちには帰る場所がある、と言う。神が帰れ、と言われれば帰る所があるというのだ。神のもとへ帰る場所がある、だからこそ私たちは今この人生をしっかりと生きることができるのだと思う。
命
普通死というものを忌み嫌うところが大いにある。死に関する話しをすると、そんな縁起でもない、というようなことを言われることが多い。日本ではそういう縁起でもないことを排除して排除して、おめでたいことだけを求めているのかもしれない。
もう亡くなったが昔ある俳優が、日本には死がないと言っていた。その人はスペインが好きでその理由がスペインには日常的に死があるというようなことを言っていた。やがて死ぬ、今を楽しく精一杯生きるということのようだった。日本では死ぬことを考えないようにしている面が多い。なんだかずっと命が続くような感覚を持っている。もちろんいつか死ぬということは知っている。理屈としては知っているけれども、死ぬということ、やがて終わりがあるということを踏まえて生きるという感覚はあまりない。
しかしこの詩編は死を踏まえている。やがて神のもとへ帰ると言っている。死を踏まえるということは命を見つめることでもあると思う。反対に命を真剣に見つめるということは死を踏まえるということでもあるだろう。
私たちの命は神から出て神に帰っていく命だ。私たちはこの命を神から与えられている。それが私たちの信仰だ。いつか死を迎え神のもとへ帰っていく、そんな命だ。いつまでこの地上にいるのかは分からない。儚い脆い命でもある。けれども神に与えられた大事な命だ。ひとりひとり、それぞれに神が与えた命を私たちは持っている。だからこそ、自分を大事に、そしてお互いを大事にしていくのだ。