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礼拝メッセージより
「天地の造り主」 2005年11月27日
聖書:詩編 104編5-30節
水
昔ユダヤの人たちは、天地が想像される以前は深淵、つまり原始の大きな海があり、その水を神が上の水と下の水に分けたことで、その間に空が出来たと考えていた。そして下の水を一カ所に集めたことで海となり、それで乾いたところができて地上となったと考えていた。大空にはドームのような屋根があって、その上には水があって、その窓から雨が降ると考えていた。
そこで創世記1章の創造物語でも、6節では「神は言われた。水の中に大空あれ。水と水をわけよ。」というようなことが書かれている。
現代では、水は空から海へ、海からまた空へと循環していることが知られているので、今詩編を書くとしたらもっと違う書き方になるだろう。
昔の人は昔なりに、今の人は今なりに自然を見ているわけだが、大事なことはこの詩編を書いた、詠んだ?人は、そんな自然の営みの中に神の働きを見ているということだろう。雨が降り、それがやんで青空になり、やがてまた霧が出て、雲が湧き、雨が降る、この詩編の作者もそんな光景を見ていた。
昔も今も見ている光景はそれほど変わりはないだろうと思う。8節では、水は山々を上り、あなたが彼らのために設けられた所に向かった、なんてことも書かれている。霧や雲が山を上っていく様子なのだろうかと思う。そしてその水が空の屋根の上に戻っていくと考えた。私たちは屋根の上に戻っていくとは思わないで水蒸気となれば見えなくなると考える。でもきっとほとんど同じ風景を見ている。そしてそんな自然の営みの中に詩編の作者は神の業を感じている。もちろん昔は自然の中に神の姿が見えていた、なんてことはないだろう。同じ自然しか見ていないはずだ。そこに神の業を感じるのは、昔は科学が発達してなかったので何でも神のせいにしているだけ、なんだろうか。
信仰
自然の中にいたからと言って神の姿が見えるわけではない。宇宙をいくら調べても神の姿を直接見ることはできない。何億光年という遠くの星を見ることができる望遠鏡もあるが、また最近は地上だけではなく宇宙にも望遠鏡を持っていっているが、どんなにすごい望遠鏡を使ってもそれで神の姿を見ることはできない。神は見えない。自然の中に神の姿をみることは出来ない。けれども私たちは神のみ手を感じることはできる。信仰の目で見ると言った感じかな。
関係
詩編の作者は、水だけではなく、動物たちの餌を用意するのも神なのだという。神が生き物を作り、その自然の中で生きるようにしてくれたのだと言う。人も動物も、あらゆるものは、レビヤタン、それは海の中に住む怪獣のようなもの、ワニだという節もあるらしいが、そんなレビヤタンさえも、そこで生きるようにと、神がすべてを用意してくれているというのだ。
そして神がみ手を開かれれば良い物に満ち足り、御顔を隠されれば恐れ、息吹を取り上げられれば息絶え元の塵に返る、と言う。
つまり神との正しい関係を持つことで満ち足り、その関係をなくすことで恐れが生まれ、命も神が与え神が取られるというのだ。それはすべての生き物がそうであり、私たち人間も同じなのだ。
神との関係の中で私たちは生きている、生かされている、それが詩編の作者の信仰である。神との関係を持つことで満ち足りて生きている、それがこの作者の言いたいところなのだろう。
見えないもの
創世記の創造物語も同じようなことを言おうとしているのだと思う。天地創造が創世記の字面通りに行われた、科学的にも聖書に書いているとおりなんだ、ということを言いたいのではなくて、そんなことよりも人間は神との関係の中で造られ、神との関係の中で生きていくものなのだということを言おうとしているのだと思う。そして人間が満ち足りて生きていくために、神は見えないところでちゃんと備えていてくれているということをこの詩編は告げている。
科学によっていろんなことが解明されてきた。水がどんな動きをしているのかも分かってきている。宇宙の始めも地球のできかたもだんだんと解明されてきている。科学はそんな見えるところの現象をどんどん解明してきた。しかし神は見えないところにいる。私たちは見えない神の手の中に生きている。そして神は見えない私たちの心の中にもいてくれる。そんな見えないところを見るのが信仰の目だ。
命そのものも見えない。心臓が動いていないというようなことで命がないという判断をするのだろうけれども、命そのものが見えるわけではない。命があるのとないのとどう違うのか、私にはよくわからないところがある。私たちは今自分の命があると思っているが、この命がなくなる瞬間何が変わるのだろうか。顔も手も足もそのままある。心臓も肺も内臓も全部そこにある。それが止まったとき命はどうなるのか、どこに行くのか、消えるのか。よく分からない。
そんな見えないものがいっぱいある。喜びも楽しみも愛も、悲しみも憎しみも見えないものだ。見えないものによって私たちは生きている。確かに科学は見えるものをいろいろと解明してくれている。しかし私たちは見えるものだけで生きているのではない。大事なものは結構見えない。食べ物は見える、けれども命も愛も見えない。そして神も。神は見えない、見えないところで私たちと関わってくれている、見えないところで私たち人間が生きていけるように準備してくれている、見えないところで私たちひとりひとりを支えてくれている、愛してくれているのだ。
愛
神は私たちが愛し合って生きるようにと言われる。私たちが神との関係を大事にするように、私たち人間同士も愛し合っていきるようにと言われるのだ。それが私たちが満ち足りて生きるための術でもあるのだろう。ついついひとりよがりの、自己中心な生き方をしがちである。けれども本当はそれは幸せになる方法ではないようだ。飢えに苦しみ人たちがいる、戦争に怯える人たちがいる、私たちはそんな人たちとも共に生きるように、愛し合うようにと言われているのではないか。愛し合うために私たちは造られている。私たちに何ができるだろうか。