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礼拝メッセージより
「求めよ」 2005年11月20日
聖書:ルカによる福音書 11章1-13節
主の祈り
弟子達に教えられた祈り。日常的な言葉による祈り。かしこまった飾った言葉を用いるのではなく、普段使っている言葉。神に対しても父よ、と呼びかけるようにいわれる。父の腕の中に抱かれているような、あるいは膝の上に座っているような、神と私たちとの間はそんな関係があるということだ。そしてそんな関係がある中で祈る。父よ、と。
そして「御名が崇められますように。御国が来ますように。」と祈るように言われる。神の御心のようになるように、神の支配のままになるように、神が良いと思われるようになるように、ということがまず最初に来る。祈りはただ私たちの願い事を神に言うことであるように思うことがある。しかしイエスは神の支配が行われるようにと祈れと言う。私たちは自分の願うようになればそれがいいと思う。しかし現実には私たちのそれぞれの願いがみんな叶うわけもない。そしてその願いが叶うことが必ずしも良いことかどうかということも分からない。それよりもまず、神が良しとすることが行われること、神の支配の通りの世界となること、それこそが実は自分にとっても一番いいことなのだろう。神の支配の中に生きることができる、その支配の中に生かされていることを知ること、それこそが大事なことなのだろう。
しかしそれだけではなく、自分たちの願いも祈るようにという。毎日の切実な願いを祈るように、しかも食べ物のことをも祈れと言われる。とても具体的な、なんともばかげたような祈りにも聞こえる。しかしそれさえも祈りとなる、それさえも神が心配し配慮してくれる事柄だということだ。
わたしたち
そして後半の祈りは、私たちに必要な糧を与え、私たちの罪を赦し、私たちを誘惑に遭わせないで、とみんな私たちとなっている。私に必要な糧を与え、私の罪を赦し、私を誘惑に遭わせないで、ではない。
わたしたちとはいったい誰のことなのか。自分の家族、自分の教会、自分の国のことなのか。きっと私たちとは、全世界の者のことなのだろう。自分の隣にいる人もそうであるし、地球の裏側にいる人もそうなのだろう。主の祈りは全人類の祈りなのだ。
そして祈りは、それに対して神の恵みを期待する、と同時にこの祈りに対する神の声をも聞いていくことでもある。私たちはただ願い事を一所懸命に言って、それで終わりのようになることが多い。結構一方的な願いになりがちである。しかし祈りとは神の言葉を聞くことでもある。聖書を通して語りかけられる言葉をじっくりと聞くこと、それも祈りの大事な部分である。
執拗に?
イエスは続けて、執拗に祈るようにと言われる。真夜中に友達が来たときに、パンを借りにいったとき、最初は面倒だからと断られても、何回も頼めば与えてくれるという。友達だからということでは与えてくれないが、しつように頼めば与えてくれる、という。
いったいどういう状況なのだろうか。真夜中に友達が来るということがよくあったのか。その友のためにパンを用意しようという気持ちを持っているというのもまたすごい。しかも別の友のところに借りに行ってまで。自分の家にパンがない、用意できないというほど貧しいということか。それでも友のために食べ物を用意しようというのか。なんとしてもその友のために、ということなのか。
イエスはそういう風に祈れといわれているようだ。執拗に祈れということらしい。
私たちは神の友達なのか。友達というほど立派でも信仰深くもない。神に頼めばすぐに聞いてもらえる、無理も言えるというような貸しがあるわけでもない。私のいうことだから聞いてもらえるだろう、というような力も持っていない。しかしそれがなくても、執拗に頼むこと、執拗に祈ることを神は聞いてくれるということだ。何もない私たちにも祈ることができるということだ。執拗に祈ることができるということだ。取り引きするものが何にもなくても、お土産がなんにもなくてもいいのだ。ただ真剣に祈ること、何も持っていない私たちが真剣に祈る、その祈りを神は聞いて下さるのだ。
求めよ
だからイエスは求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい、と言われる。そうすれば、受け、見つけ、開かれると言う。人間の父も子どもが求める時には良い物を与える、天の父は、神は尚更良い物を、聖霊を与えられるというのだ。私たちの願ったそのものよりももっと良い物を与えられるということだ。聖霊を、神の霊を、イエス・キリストの霊を与えられるというのだ。つまり神自身を与えるということだ。
誰かが、祈りとは、私たちの心の中にイエス・キリストを迎え入れることである、と言っていた。私たちが神を呼び、こっちを向いてくれ、私の言うことを聞いてくれ、と言うよりも先に、イエス・キリストが私たちの心の扉を叩いてくれている、だからこそそれに答えて心の扉を開けイエス・キリストを心の中に迎え入れる、それが祈りである、と言っている。
祈り
また祈りとは神の働きを見いだすこと。発見すること。
今神が現実に働いていることを見いだすこと。神の働きを探し求めること、それが祈り。神が聖霊を通して働いているということを知ること、それが祈り。だからこそ、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」のだろう。
父親がこどもに良いものを与えるように、天の父は、神は私たちに聖霊を与えてくれるというのだ。神が私たちに働きかけてくれるということだ。聖霊を通して今も私たちに働いておられるということだ。それは、神は私たちが今この現実の中で神の働きを見いだすことができるようにしてくれるということだ。
祈ることで初めて神が働いてくれるというわけではない。祈らなければ神は何もしてくれない、というわけではない。神はすでに働いていてくれているのだ。私たちが気づこうと気づかなかろうと神は働いておられる。その働きに気づかせてもらうこと、神が今も働いておられること、私たちのことを見つめておられること、私たちのことを心配してくれていること、私たちのことを愛しておられること、そのことに気づかせてくれる、それこそが聖霊の働きだ。つまり神が私たちを愛しておられることを知ること、それこそが私たちにとって最も良いものなのだろう。私たちは決してひとりぼっちではない、いつも神が共にいて、私たちを見つめ、私たちを心配し、私たちを愛している、そのことを知ることこそが祈りなのだろう。
私たちはえてして祈ることで奇跡的な出来事が起こることを期待する。今ないものを与えられることを求める。確かにそういうこともあるだろう。そんな願いが叶うこともあるだろう。そんな恵みが与えられることもあるだろう。しかし恵みはもうすでに与えられれていることも多いのだ。私たちの祈りの力によって神が私たちを恵まれるのではない。私たちが神を動かすのではない、もうすでに神は恵みを与えられている、もうすでに神は私たちの心の戸を叩いておられる。その恵みに気づいていくこと、私たちの心の戸を開いてイエス・キリストを心に迎え入れること、それが祈りなのだ。
こんな話がある。
街で、薄い着物一枚で、満足に食事もできず、寒さに震えているひとりの小さな女の子を見ました。わたしは怒り、<神>に言いました。「あなたはなぜこんなことをお許しになるのですか? なぜ何かをしてくださらないのです?」
しばらくの間、<神>は何も言われませんでした。その夜、<神>は突然お答えになったのです。「わたしは確かに何かをした、わたしはおまえをつくった。」(『小鳥の歌』アントニー・デ・メロ)
私たちも神に向かって、これをどうしてこうしてくれないのですか、この大変な状況をどうにかして下さらないのですか、この人のことをどうして放っているのですか、どうして奇跡を起こしてあの人を救って下さらないのですかと祈る。神は私たちに向かっても、私はあなたを造ったと言われているのではないか。そこにあなたを遣わしたと言われているのではないか。私はあなたを通して恵みを与えられる、あなたを通して栄光を表す、あなたがそこにいることが私の計画なのだ、と言われているのではないか。そのことを知ること、それが祈りなのだろう。
隣人と生きるための力を、誰かと共に生きる力を神はすでに私たちに与えられている。大変な状況をどうにかする知恵と力をもうすでに私たちに与えられている。誰かと一緒に生きるための恵みをもうすでに与えられている、そしてこれからも与えて下さる、だからその誰かと一緒に生きなさい、と言われているのではないか。私たちに与えられているものを生かして、誰かと共に生きなさい、励まし合い、いたわり合って生きなさいと言われているのではないか。
そして、神は、すべては私が支配している、すべては私の手の中にあることだ、だから思い煩わないで生きなさい、私の声に聞きつつ生きなさい、と私たちに言われているのではないか。