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礼拝メッセージより
「みなしごにしない」 2005年11月13日
聖書:ヨハネによる福音書 14章15-21節
インマヌエル
マリアが妊娠したことを知ったヨセフはひそかに離縁しようとしていたが、その子は聖霊によって宿った、その子をイエスと名付けなさい、その名はインマヌエルと呼ばれる、その意味は神は我々と共におられる、という意味である、という夢を見てマリアと結婚したことがマタイによる福音書に書かれている。
イエスはインマヌエル、つまり神は我々と共におられるというように呼ばれるという。そのイエスは見える姿ではこの地上にはいない。では神はどういう風に私たちと共にいてくれるのだろうか。
弁護者
イエスは自分に代わって別の弁護者を遣わしてくれるよう父なる神にお願いしてくれるという。この方は真理の霊である、という。真理の霊を父なる神は遣わしてくださる、そして私たちと永遠に一緒にいるようにして下さる、というのだ。
みなしご
私たちをみなしごにしない、とイエスは言う。また戻ってくると。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる、なんて言う。わかった?
わたしが父の内におり、つまりイエスが父なる神の内にいる。まあそれはいいとして、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる、つまり私たちがイエスの内にいて、イエスも私たちのうちにいるというのだ。どっちが中にいてどっちが外にいるんだろうか。
私たちはイエスの中にどっぷり浸かっているようなものではないかと思う。イエスの中に生きている。そしてそれだけじゃなくてそのイエスが私たちの中にまで染みこんでいるようなものなのではないかと思う。鍋の中に野菜を入れて煮込むと味が野菜の中に染みこんでいく、そんなことなのかと思う。
イエスが私たちと共にいる、というのはそういうことなんだ、きっと。隣りにいるとかくっついているというだけじゃなくて、私たちの周り全部を取り囲むようにしていて、しかも私たちの中にまで染みこんでいる、そんな風にして共にいるのだろう。
同じように弁護者である真理の霊は、17節では、この霊はあなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいる、と言われている。イエスが私たちと内にいると言われているように、この霊も私たちの内にいるというのだ。
三位一体
この真理の霊、聖霊とも言うが、聖霊もイエスも私たちのうちにいてくれるということだ。父と聖霊とイエスと、一体どういう関係になっているのか私たちにはわかりづらい。命を生み出す父、私たちと共に苦しみ痛みを分かち合う子、神と人間という全くちがった二つのものを完全にひとつに結びつける聖霊、という説明が聖書教育に書いてあった。父と子と聖霊という三つの人格のような位、これをペルソナというそうだが、その三つがあってひとつの神だという。ペルソナとはもともとは劇で使う仮面のことだそうで、そうするとひとつの神に三つの仮面があるようなイメージなのかもしれない。
聖霊の働き
そこでここで語られている聖霊とはどういうものなのか、どういう方なのかといった方がいいのかもしれないが、その聖霊の働きとはどういうものか。
コリントの信徒への手紙一12章3節にはこう書いている。「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」神がいることが分かる、イエスが救い主であると分かる、少しでも分かる、それは聖霊の働きがある、ということ。
神のことを私たちは聖霊によって分からせてもらっている、というのだ。必死に勉強したら分かるとか、一所懸命に修行したら分かるとかいうことではない。ただ聖霊によって、聖霊が働きかけてくださることによって分かるというのだ。
何で神さまがいるなんて信じてるのか、それは聖霊がそうしたから、と聖書に書いている。私たちは聖霊がそうしてくれたから神の言葉を聞くようにしてくれたし、神を信じるようにさせてもらっているという。
また聖霊は私たちのために祈ってくれているともいう。ローマ 8:26にはこう書かれている。「同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」
私たちのために、霊が、聖霊が既に祈っているというのだ。私たちの中で。聖霊は私たちの内にいてくれるだけじゃなくて、私たちのことを祈ってくれている、と言う。こいつのことを頼むよ、と執り成してくれているというのだ。しかもうめきをもって取りなしてくれているというのだ。こいつをどうか赦してやってくれ、どうにかしてやってくれ、助けてやってくれって祈ってくれているというのだ。
そんな聖霊、弁護者を神は私たちのために遣わしてくれたというのだ。
公共広告機構の広告の中に抱きしめる、という会話というのがある。抱きしめられた記憶は、人の心の奥の方の大切な場所にずっと残っていく、そしてその記憶がその後の人生のいろんな場面での助けや支えとなっていく、という文章だ。心の奥の方の大切な場所は誰からも見えない。自分でもほとんど見えないところかもしれない。しかしそんなところに一番大事なものが残されているんだろうと思う。
聖霊はきっとそんな心の奥の大切な場所にいてくれているのだと思う。そこから声にならないような声を出してくれている、神の言葉を語りかけてくれているんだろう。私にとってあなたはとてもとても大事なひとりだ、とてもとても大切なひとりだ、世界中の誰もがそうでないと言ったとしても、私にとってはあなたは大切なのだ、そんな風に心の奥から語りかけてくれているのではないか。
聖霊がいてくれるといっても、なんでもできるようになるわけでもないだろうし、不安も恐れを全部なくなるわけではないだろう。そんな目に見えるようなところは何も代わらないかもしれない。けれども聖霊は私たちの根っこをしっかりと支えてくれているんだろうと思う。家を建てるときには見えなく基礎が一番大事なように、聖霊は私たちの目に見えないところをしっかりと支える、そんな仕方で私たちを助けてくれているのだろうと思う。心の奥の大切なところにいて、私たちを支えてくれているのだと思う。
これって神さまに抱きしめられているみたいだな。