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礼拝メッセージより
「罪人の内に」 2005年11月6日
聖書:ヨハネの手紙一 4章7-21節
神を知る
神を知っているか。どうして知っていると言えるのか。教会に来ていたら知ることができるのか、立派な牧師の説教を聞いたから知ったのか。知識としてならばいろんな方法で知ることができる。それで神についての知識は知ることができる。この手紙には面白いことが書かれている。私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちの内にとどまってくださり、神の愛が私たちの内で全うされている、と言う。互いに愛し合うところに神がとどまるというのだ。
立派に
立派な人間になり、立派な信仰者になり、立派な行いをし、揺るがない信仰を持ち、決して疑いの心を持たない、そんな所に神がとどまるのではない。愛し合うところにとどまるのだ。
私たちは立派な人間にならなければ、立派な信仰者にならなければならないと思っているのではないか。悪いことをしない人間、人に迷惑をかけない人間、邪悪な心を持たない人間、間違いをなくし、正しい人間であることを目指すようなところがある。教会に来ても、礼拝を休まないでいろんな奉仕を欠かさないで、献金も欠かさない、そして何が起こっても動揺せず、苦しいことも感謝し、愚痴はこぼさず、いつも笑顔で平安でないといけないような、そういう人こそが立派な信仰者なのだと思っているのではないか。
立派になることを目指している。そうすることで認められると思っている。確かにそれを高く評価する人もいるだろう。
しかしヨハネの手紙は、いわゆる立派な人間になれ、立派な信仰者になれ、とは言わない。あれをしろ、これもしろ、と言わないのだ。誰にも負けないほど立派に出来る者こそ偉いのだ、とは言わないのだ。ただ愛し合いなさいという。神が私たちを愛しておられるように、愛し合いなさいというのだ。
しかしこの世の中愛するよりも批判することが多い。人の悪口を言うのは誰もが好きだ。相手の駄目なところを指摘するのは結構気持ちいい。批判されることで成長するという言い方をすることもあるが果たして本当だろうか。誰かがこんなことを言っていた。「自分が批判したことでその人が成長したという人は誰ひとりいない。自分自身も誰かに批判されたことで自分が成長できたというような経験もない。」僕も同じだ。自分を成長させてくれたのは誰かのちょっとした誉め言葉であり、自分を認めてもらったということを知ることだ。自分を批判され認められなかったことからいつまでたっても自信を持てないということもある。
恐れ
批判ばかりされていると、こんなんでいいんだろうか、これだけではまだ不十分ではないか、認められないのではないか、また批判されるのではないかという恐れを持つ。しかし聖書は、愛には恐れがない、完全な愛は恐れを閉め出します、という。罰を受けることはない、責められることはない、ということから安心できる。いつ責められるか、いつ罰を受けるか、という思いでいるとすればとても安心してはいられない。完全な愛は恐れを締め出すというのだ。神はもう罰しないのだ。私たちの罰はイエス・キリストの十字架で終わったのだ。だから私たちはもう決して罰せられないのだ。そのことを知ることで恐れがなくなるという。恐れがあるということは、そのことをまだ知ってないということになる。そして恐れがあるから、安心していないから、赦されたという喜びがないから、他の者のことが気になり、あいつはなんだこいつはけしからん、ということになるのではないか。人の欠点が気になるときは自分の欠点に対する恐れがあるからではないか。そして神の完全な愛を見失っている時ではないか。
教会
まったく批判し非難することが多い社会である。果たして教会はどうなのだろうか。
教会もこの社会と同じように相手の駄目な所を非難し批判するところなのか。だめなところを指摘してあげて矯正させて、立派なクリスチャンを造り上げる、それが教会なのだろうか。
アメリカのある大きな教会の牧師は、教会のスタッフ同士が、絶対に責めない、いつも誉め合う、そのことを貫徹してきたことが教会が成長してきた秘訣だ、と言ったそうだ。
なんでも立派にこなさないといけないと叱られるのではないかという恐れが誰にもあるのではないか。クリスチャンなんだから弱音をはいちゃいけないとか、いつもまじめな顔をしてまじめな事をしゃべってないといけないとか、苦しいことがあっても感謝しないといけないとか、いつも希望を持っているような顔をしてないといけないとか、そんな目に見えないプレッシャーがあるのではないか。そうしないと駄目だ認められないと言われてしまいそうな恐れがあるのではないか。
僕も牧師のくせに何をしているんだ、もっとしっかりしろ、何を甘えているんだ、と言われそうな恐れがある。実際ときどき言われるけれども。でも恐れがあればあるほど何もできなくなると思う。
しかし聖書は言う。本当に大事なことは愛し合うということだ。大事にし合うということ、いたわりあうということだ。苦しいときに苦しいと言えない、辛いときに辛いと言えないとしたらどんなにつらいだろう。教会に来てもその苦しさや辛さを受け止めてもらえないとしたらいったいどうすればいいんだろうか。苦しいときにはきっととんでもないこと言うだろう。神さまはいったどこにいるのか、神さまは何をしているのか、見捨てたのか、と言うだろう。愛するということはそんな苦しい言葉をも聞いていく、受け止めていくことだろうと思う。そんなこと言ってはいけません、もっと前向きになりなさい、なんて言いたくなってしまう、けれどもそれは相手を愛しているのではなく、実は苦しんでいる相手を受け止められなくて関わりたくなくて拒否しているだけなんじゃないかと思う。
きっと社会の誰もが、愛される場所を求めている。安心できる場所を求めている。いつ何を言われるかわからないという恐れを、緊張を持たなくてもいい場所を求めている。自分のすべてを受け止めて欲しいと思っている。教会がその場所であるのではないか。ここにいる私たちが一番それを求めているのかもしれない。そして神さまはそんなありのままの、裸の私たちを見つめてくれている。
神を知る
神を知るということは裸の自分を見つめるということでもある。神が愛している裸の自分を見つめることでもある。そしてそれは罪人である自分を見つめることでもある。
私たちは罪人である自分を隠して生きている。いろんな鎧をいっぱいつけている。でも鎧は結構重いのだ。ありのままの自分を隠すのは結構疲れる。
しかし神は鎧の中の私たちを愛しているのだ。人は鎧の立派さに目を奪われて中身が見えないことも多い。けれども神は私たちの鎧の立派さを問題にはしていないらしい。裸の私たちを愛している。それは罪深い、邪悪な私たちを愛しているということだ。どす黒い思いを持っている、決して誰にも言えないような薄汚い思いを持っている、そしてしょっちゅう苦しみ悩んでいる、そんな私を愛しているということだ。
神がそうやって愛してくれている、だから互いに愛し合いなさい、というのだ。神がそんなありのままの、裸の私を受け止めてくれている、だからあなたも隣人をありのままに受け止めなさいと言われているのだろう。
私たちは受け止めるよりも矯正したがる癖があるように思う。嘆き泣く者に対しても、そんなにいつまでも泣くな早く元気を出せということが多い。相手を立派な元気な強いまじめな人間に仕立て上げようとすることが多いのではないか。そしてそんなことでは駄目だ、そんなことを言ってはいけない、なんて自分にできないことまで相手に要求したりする。
でも神はそういう仕方で私たちを見つめている訳ではない。どんなときも私たちの側にいる、嘆き悲しみ失望する私たちのそばに居続けるという仕方で私たちを愛している。
私たちはいろんなことに悩み苦しむ。嘆き叫ぶこともある。それが私たちのありのままの姿だろう。愛し合うということは、そういうことも含めて認め合い支え合うということでもあると思う。そしてそれは相手の悩みや苦しみや嘆きや叫びをも黙って聞いていく、受け止めていくということだろう。そんなことでどうする、そんなことをしては駄目だ、そんなことを思ってはいけない、とすぐに言いたくなってしまうが、それは相手を本当は愛して言っていることなんだろうか。
罪人の私たちのところに神がいてくれているのだ。罪を持った同士、罪に苦しむ者同士が愛するところに神がいてくれるのだ。
私たちの間には神がいてくれる。私たちは簡単に愛することもできないような者だろう。しかし私たちの間に神がおられる。互いに神と共にいるという仕方で私たちは共にいるのだろう。神を仲立ちとして共にいる、神に愛されている者同士として、神に全てを赦された者同士として神を仲立ちとして愛し合う、それが教会なのだろう、と思う。愛し合い赦し合いいたわり合うこと、それこそが教会の命。私たちの命なのだ。