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礼拝メッセージより
「出会い」 2005年10月30日
聖書:ヨハネによる福音書 5章31-40節
イエス
イエスは何者か。それは初代の教会での問題でもあり、今の教会の問題でもある。聖書は、「ナザレのイエスこそ神の子である」(ヨハネ1:34)、イエスこそ「道であり、真理であり、命である」(14:6)と告げる。
そのことを私たちはどうやって知ることができるのか。それを証しするのはイエスが行っている業そのものであり、イエスを遣わした父なる神であるという。と言っても私たちは直接神の声を聞くことはできない。結局は聖書を通して知るしかない。そうすると聖書とどう関わっていくのか、聖書からどう聞いていくのか、聖書をどう読んでいくのかということが問題となってくる。
出会い
39-40節で「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と言われている。
ユダヤ人たちは永遠の命を求めて聖書を研究していた。ここで言われている聖書とは今の旧約聖書のことであるけれども、その聖書を研究していた。そして旧約聖書はわたしについてついて証しをするものであるのにわたしのところへは来ようとしない、とイエスはいうのだ。永遠の命とは、ずっと死ぬことのない命のことではなく、神との関係の中で生かされる真の命というようなもののことのようだ。神の言葉を聞き、その言葉に励まされたり慰められたり力づけられたり癒されたりする、そういう豊かな命、豊かな人生のことをここで永遠の命と言っているようだ。ただ死ぬことがない命のことではないらしい。苦しみばかりで孤独でつらいだけの命がずっと終わらないとしたらこんなつらいことはないと思うが、聖書の言う永遠の命はそんなことではなくて、神とのつながりを持って生かされている命ということのようだ。
聖書はその永遠の命がイエスのもとにあるというのにイエスのもとには来ないというのだ。聖書を一所懸命に研究して聖書の語っていることはとてもよく知っているのに、その聖書が指し示すところへは行かないというのだ。
このワインは何年にどこそこのぶどうを使って誰それが作ったものだ、なんてことをいくら知っていようと、それを飲まない限りは酔うことはできない、なんて言葉をあるけれど、当時のユダヤ人たちも同じようなことをしていたようだ。聖書についての知識はいっぱい持っていて、聖書自身を味わうことはなかったのだろうと思う。
私たちはイエスについて知ることよりもイエスと出会うことが大切なのだ。イエスは何年何月何日に生まれて、どんな家庭に育って、子ども時代はどんなことをして、何年にあそこに行ってこんなことをして、何年にはここに行ってこんなことをしゃべった、なんてことを事細かに知ることが大事なわけではない。イエスと出会うことが大事なのだ。もちろん今面と向かって会うことはできない。抱きつくこともできない。けれども私たちは言葉を通してイエスと出会うことができる。私たちに語りかけられているイエスの言葉と出会うことでイエスと出会うことができる。イエスの言葉、あなたを愛している、あなたを赦す、空の鳥を見よ、思い煩うな、そんないろんな言葉を私たちは聞いている。その言葉によって私たちが力づけられたり慰められたりする。それはイエスと出会っていることなのだと思う。
私たちはどういうふうに聖書を読んでいるのだろうか。イエスの言葉をどんな風に聞いているだろうか。自分に語りかけられている言葉として聞いてなければそこでイエスと出会うことはできないだろう。聖書は単なる神からの命令書ではない。また教科書でもない。ラブレターというのが一番ふさわしいかもしれない。単なる守らなければならない言葉、覚えなければならない言葉ではなくて、大好きな者へ語りかける愛の言葉なのだ。そんな言葉だからこそ私たちはそのひとこと一言によって奮い立ち、元気づけられ、また慰められるのだと思う。
この教会に来た当初、壮年会である牧師の短いコラムを読んでみんなで意見を言っていた時期があった。そのコラムは短い文章の中にとっても内容のある、教えられることが多いと僕自身が思うものを選んでいた。ところがそのコラムを読んでみんなが思うことを言っていたのだが、どういうわけかみんな非常に批判的だった。全体として何を言おうとしているかということを聞いていこうとすることはあまりなくて、一部の文章の言葉尻をとらえてこれはおかしいんじゃないか、そうじゃないときはどうなるのか、なんて話しばかりしてたように記憶している。結局その一つのコラムが言おうとしていることをしっかりと聞いて、そこから自分のことを考えるなんてことはほとんどなくて、いわばコラムのあら探しばかりしていたように思う。
そして何かとあら探しをするというのは、当時の壮年会だけじゃなくてうちの教会の特徴でもあったと思う。
ラブレターもらってあら探しをする人がいるだろうか。ラブレターを出した相手から、言葉尻を捕らえて、ここはどうだこうだ、ここはおかしいなんて言われたらどう思うだろうか。こっちとしては好きだということを分かって欲しいだけだと言いたくなるだろう。その気持ちさえ分かってもらえばいいとおもうだろう。
聖書を読むときも、言葉尻を捕らえてばかりいては、本当に聖書が告げることを読むことができなくなってしまいがちだ。聖書を通してイエスの思い、イエスの気持ちを読まないならば聖書を読む価値はずっとずっと減ってしまうだろう。そこでイエスとの出会いがなければ、聖書も他のただの本と同じことだ。
聖書には神の思い、イエスの思いが詰まっている。私たちと出会うチャンスをきっと待っている。
イエスとの出会いがあるからこそ、私たちはイエスについていく。イエスとの出会いがあるからイエスの言われるように生きていく、神の命令に従って生きていくのだ。私たちを愛して止まない方がいる、目には見えないけれども大事に大事に思っている方がいる、だから私たちは生き生きと生きていくのだ。