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礼拝メッセージより
「肉体となって」 2005年10月9日
聖書:ヨハネによる福音書 1章1-18節
言葉
昔茨城にいた頃、横浜にいる友だちのところへ遊びに行くことがあった。行ったことがないところだったのでどうやっていけばいいか電話で聞いた。確か京浜急行の快速に乗って、どこか忘れたけど普通に乗り換えて金沢文庫で降りるとかいう話しだった。その駅を北側に出て左側に向かって歩いて、それから何番目の信号を左に曲がって、踏切を越えて、右側になんとかいう建物が見えたらそこを左側に曲がって、、、、なんていうのを電話で聞いてこっちは地図を書いていた。よし分かった行くから、と行って電話を切った。
後で聞くところによると、そのことを友だちは仕事場の同僚に話しをしたそうだ。そうすると同僚の人は、それは無理だ、こんなわかりにくいところに全然土地勘のない者が来るのに、電話だけでそうやって説明しても来れない、と言ったそうだ。でも友だちはあいつなら絶対来ると言っていたそうだ。そして実際電話の説明だけでたどり着くと、来ると言っただろうと言ったそうな。
知らないところへ行くのに、電話でここを右にここを左に、この看板が見えたら右に、なんて言われても確かに難しい。こっちも地図を持っていて、そこにある道をなぞりながら聞くのならまだ行きやすい。でも地図も何も持ってないところで、言葉だけで目的地に行くのは難しい。大きい目立つ建物ならまだしも、普通の小さな家やアパートに行くのはとても大変。
知らない家に行く一番いい方法、それはそこの家の人に迎えに来てもらうことだ。迎えに来て貰えたら、こっちはその家の場所を全く知らなくても大丈夫だ。
神さまは神の家に私たちを招いてくれているようなものだと思う。けれど私たちはどこに神の家があるのか分からない。そこで神さまはお迎えを寄越した。それがイエス・キリストだ。イエス・キリストは私たちを神の下へ連れて行くためのお迎えのようなものだと思う。私たちは神の家がどこにあるか、どうやって行けばいいかまるで知らない。でも知らなくてもいい、ただイエス・キリストについていけばいいのだから。神は私たちを大事に思っている、そして自分のところへ戻ってくるようにと招いてくれている。そのためにイエス・キリストを私たちのところへ送ってくれた。だから私たちはイエス・キリストについていく、従っていく。
言
創世記の最初を見ると、神が光りあれと言われることで光ができ、水の中に大空あれ、水と水をわけよと言われてそのようななったことが書かれている。
神の言葉によって天地ができたというのだ。神の言葉はそんな言葉なのだ。人間の発するただの声ではない。いや、人間だって言葉によって人を殺すようなこともあり、言葉によって勇気づけ力づけ慰めることもある。人の言葉だってそうなのだが、神の言葉とはそれ以上に力あるものなのだろう。あるいは言葉はそれを発した者の意志を受けている、発した者そのものでもあるということなのだろう。
ヨハネによる福音書では冒頭に言が出てくる。
言とはなんぞや。結論から言うとイエス・キリスト
その言は世のはじめから天地がつくられる前からあった言。神と共にあった言。神であった言。
そして世界は言によって、つまりキリストによってできた。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」(コロサイ1:16)
すべてのものはキリストによってできたということは、この世界はキリストの世界、キリストとの関係によってできた世界。世界はキリストのもの。神のもの。だから世界はキリストとの関係の中で生きるのがこの世界に生きるものの正しい姿ということになる。
またキリストが全ての物を造ったということは、私たちに関わるものすべてがそのまま神から造られたものでもあるということだ。私たちがどこにいても、どんな時も全部神との関係の中にあるということだ。神から離れて、神との関係のない時を過ごす、神との関係のない所にいる、ということはないということだ。
そしてこの言の内に命があったという。言によってこの命を与えられる。命の元はここにある、ということだろう。そしてこの命は人間を照らす光である。イエスキリストが光である。そしてその光は暗闇の中で輝いている。暗闇の中で光を見つけることの喜びを思う。実際に物理的な暗闇も余り気持ちのいいものではないが、人生の暗闇に遭遇するとどうしようもなくなる。全く動けなくなってしまう。どうしていいのか、分からない。しかし、イエスは私たちの人生の暗闇の中で燦然と輝いている。イエスはまたすべての人を照らす光である。
そんな言が肉体となって私たち人間の世界に来た、という。神が人間として生きたというのだ。神はかつては言葉をもって人との関係を持っていた。これをこうしなさい、ああしなさい、という言葉を人に語っていた。しかしここで神はただ言葉を語るだけではなく、人間となってやってきた、実際に肉体をもってやってきた、それがイエス・キリストであるとこの福音書は告げるのだ。
この福音書の著者は難しい言葉でイエス・キリストのことを説明しようとしている。なんだか分からないところもあるが。しかしとにかく、イエス・キリストは世界が造られる時からすでにいた神であり、父なる神とは同じではないがやはり神であり、人間を照らす光を持ち、すべての人を照らす。その神であるイエス・キリストが地上に来られた、そして自分を受け入れるものに神の子となる資格を与えられた、と言うのだ。
イエス・キリスト
私たちはそのイエス・キリストに、肉体を持ったイエス・キリストに会うことは出来ない。見ることはできない。しかし今私たちはイエスと言として接している。聖書の言葉を通して、イエスの言と接している。そしてこのイエスの言はそのままイエス自身でもあるように思う。
神が、イエスが私たちを愛している、大事に思っているということも、神の手の中に抱きしめられるということを私たちは肌で直接感じることはできない。けれども、イエスの言葉としてそのことを知らされている。
私たちはイエスと顔と顔を合わせて話しをするようなことはできない。でもイエスの言を聞くことで私たちはイエスと会っているともいえるのではないか。
言葉は紙に書けばただの文字であり、話せばただの音である。でもその言葉の中にはその言葉を発する者の気持ちが込められていたり、その言葉に愛が込められていたりもする。そしてその言葉を読み、また聞くことで私たちは一喜一憂することがある。それはその言葉の中に相手の気持ちや愛などがあるからだろう。実際私たちの間でも言葉によって誰かと会うということがあるように思う。誰かの一言に怒ることもあるし、反対に誰かの一言で慰められることもある。ある人は、自分が子育てに疲れて落ち込んでいるときに、たまたま公園の木のベンチに誰かが彫り込んでいた、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」という言葉を見てとても慰められてそうだ。
私たちは聖書を通してイエスの言葉に出会う、それはまさにイエスと会っているようなものだ。その言葉はイエスそのものとも言えるようなものだ。
だからイエスの言葉を聞くときは、それはイエスのすぐそばにいるようなものだ。イエスの言葉を聞くということは、イエスと面と向かって話しをしているようなものだ。
万物を造った神であるイエスとそのようにして会うことができるのだ。
聖書はただの書物である、といえばその通りであるが、そこでイエスと会うこともできる、そんな書物でもある。誰かが聖書は神からのラブレターだ、なんてくさいことを言っていたがしかしその通りだと思う。いくらいっぱいラブレターを貰っても、それを相手からの言葉として読まなければ嬉しくもなんともない。
聖書も読まなければイエスとは出会えない。聖書を枕にして寝てみてもだめだ。この中の言葉を通して私たちは神に出会い、イエスに出会い、そこから私たちは喜びや平安や希望、そして愛を受けることが出来るのだろう。イエスはそんな言として私たちの中に入ってこられるのだと思う。あんたが大事なんだ、あんたのことが大好きだ、あんたを愛している、そんなイエスの言葉をしっかりと聞いていきたい。