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礼拝メッセージより
「イエスによって」 2005年10月2日
聖書:ヘブライ人への手紙 1章1-4節
神
神って何なのか。実家には昔から神棚がある。神社のお札がおいてある。神社にも年に数回行っていた。初詣と祭りの時には行っていた。小さい頃から行っていると行かないことが悪いような気持ちもあった。
でもだんだんと大きくなると神が分からなくなってきた。神社へ行って祈るわけだが、頭良くして下さいとか成績あげてくださいとか願うけれども、誰に祈っているんだろうと思ってしまって、なんとなく格好だけは真似して帰ったという記憶がある。それからだんだんと神社にもいかなくなった。行かないとばちがあたるかと心配してたけど、そんなことも段々と気にならなくなってきて、神は自分とは関係のないものになっていった。ただどこか遠いところにいるのかもしれないという存在でしかなかった。神社の神と自分の関係って実際何もなかったように思う。
預言者
旧約聖書に預言者が登場する。預言者はここにあるように言葉を預かる者、つまり神の言葉を預かって民に伝えてきた人のこと。未来を言い当てる人のことではない。
聖書の神は預言者を通して民に言葉を伝える神だ。僕にとっての神社の神とはだいぶ違う。
預言者は一体どうやって神の言葉を預かったのだろうかとよく考える。神の声が聞こえたのだろうか。聖書を読むと預言者は神から直接語りかけられて聞いたという風に書いてあるけど、それってどんな風に語りかけられたのだろうか。実際に人と人とが会話するように実際に耳に聞こえてきたのだろうか。それとも心の中にふっと思い浮かぶようになのだろうか。預言者たちが一体どういう風に聞いてきたのかよくわからないが、かつて神は預言者を通して、預言者にその言葉を託して民に伝えていった。
終わりの時代
しかし終わりの時代には神は御子によって、つまりイエス・キリストによって語ったとこの手紙は告げる。かつてのように預言者を通してではなくイエス・キリストによって語ったというのだ。そしてこのイエス・キリストは神の栄光の反映であって、神の本質の完全な現れであるというのだ。つまり結局は神そのものであるということだろう。神が形をとって現れた、人間となった、それがイエス・キリストなのだ。終わりの時に神はイエス・キリストとなって、人に直接語りかけたと言うのだ。
そしてこのイエス・キリストは、人びとの罪を清めたのちに神の右の座に着いたと言われている。
かつては大祭司が年に一度聖所に入り、人びとの罪のあがないのために犠牲の動物をささげていた。イエス・キリストは一度だけ自分の命を捧げて人びとの罪を完全にあがなった。イエス・キリストの十字架の死によって人びとの罪は完全に清められたのだ。そして神の右の座につかれたというのは、ダビデの家に与えると約束された神の約束がイエス・キリストにおいて成就した、イエス・キリストが神の子であるという初代の教会の信仰告白の言葉なのだそうだ。
つまり旧約の時代から約束されていた神の救いの出来事が、イエス・キリストにおいて成就した、イエス・キリストにおいて果たされた、約束通り実行されたということだ。
語る神
私たちの神は語りかける神である。自分から人に向かって語りかける、それが私たちの神だ。僕にとっての神社の神とは全然違う。自分から人びとに語りかける神だ。人びとが神から目をそらしてしまうようなときにも、なんとかして取り戻そうとする神だ。
自分の御子を遣わして、御子の命によって人びとの罪を赦し、自分との関係を取り戻そうとする、そんな神だ。
遙か遠い高いところにいて、ここまで上がってきた者には会ってやろう、という神ではなく、自分から低いところへ降りてきて、いつも一緒にいようとする、そんな神だ。
イエスを通して
そんな神が終わりの時に人となってやってきてくれた。それがイエス・キリストである。イエス・キリストとなって神は私たちに神を見せてくれた、語りかけてくれたというのだ。神の意志を私たちに伝えてくれたのだ。
イエス・キリストは自分から出かけていっていろんな人に会った。特に社会からのけ者にされている人たち、差別されて苦しめられている人たちに会っている。自分なんか何の価値もないと思っている人たち、何の役にも立たないからいても仕方ないと思っている人たちや、自分の人生はもう破綻してしまって取り返しもつかないと思っている人たちに対して、私はあなたが大切なのだ、私はあなたを愛していると語りかけた。
反対に、自分は正しいあいつらは間違っていると言って人の罪を責めている者に対しては、罪のない者がこの人を罰しなさいと言った。
そんな風に私たちにとって大切なものを神は私たちに伝えてくれている。私たちが生きていく上に大切なことを自ら語りかけている、聖書の神はそんな神だ。私たちとの関係を持とうとして自分から語りかける神だ。
神の声はこのイエスの声なのだ。このイエスの声は神の声なのだ。イエスの語ったことは神が語ったことなのだ。
神さま語って下さい、あなたの声を聞かせて下さいと思うこともある。どうして語ってくれないのと思うこともあるかもしれない。
でも本当はもう語ってくれている。神はもうすでにイエスとして語ってくれている。神の言葉はもうすでに私たちのところに届けられているのだ。もうすでに聖書として私たちの手の中にある。聖書を開けばそこに神の声が書かれている。だから聖書を開いて神の声を聞いていこう。聖書を読んだら急に金持ちになるとか急に病気が治るとか、急に美人になるなんてことはないだろう。しかしそこには私たちが生きる上で大事なことが書かれている。人は神との関係を持って生きることがとても大事なことなのだと思う。神に愛されている、大事に思われている、そんな根っこの所、根底を支えられて私たちは生きている。そのことを知ることはとても大切なことであり、とても嬉しいことだ。
そして神が、イエス・キリストが、私たちとのそんな関係を持つことを望んでいるのだ。そんな神の声をしっかり聞いていこう。