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礼拝メッセージより
「心に刻め」 2005年10月16日
聖書:申命記 10章12-22節
外見
割礼を受けることでユダヤ人になる。割礼というのは生まれて8日後に男の子の包皮を切るという行為。つまり消せない形でユダヤ人となる証明となった。
割礼はアブラハムの時代に始まったと創世記に書いている。神が自分達を祝福してくれるというしるし、神との契約のしるし、それが割礼だった。
割礼を受けることでその祝福の民となるという思いをユダヤ人たちは持っていたのだろう。だから割礼をとても大事なものとしていた。
新約聖書の時代にも、使徒言行録を見ると割礼を受けるかどうかが問題となったことが書かれている。ユダヤ人キリスト者たちは、イエス・キリストを信じるには先ずユダヤ人となって、つまり割礼を受けなければいけない、それがイエス・キリストを信じる、バプテスマを受ける条件であると考えていた時期があったようだ。
心の包皮
しかし申命記では、心の包皮を切り捨てよという。体の包皮を切っているかどうかは見ればすぐに分かる。はっきりしている。割礼を受けたユダヤ人たちは、俺たちは割礼を受けているんだから神から選ばれた民になっているのだ、と思っていたのだろう。ユダヤ人たちはそう思って割礼をしたことを誇りに思って生きてきていたに違いない。
しかし申命記では、申命記でもすでに心の包皮を切り捨てよ、と言われているのだ。私はすでに割礼を受けているからもういいのだ、もう神に従っているのだ、と思ってただそれだけの人たちがきっといたのだろう。割礼を受けて神に選ばれた民の一員になったと言いつつ、神の命令を聞かず、神の掟を守ることもしない人たちが大勢いたのかもしれない。
神の命令を聞き掟を守るということは、ただ神よ神よ、と言うことじゃなくて、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えること、寄留者を愛するということだ。特に苦しんでいる、困っている隣人を大事にするということだ。それは自分達が寄留者だったからだ、と聖書は言う。寄留者であった自分達を神が守ってくれた、だから今度はあなたたちが寄留者や困っている者たちを助けなさいというのだ。そしてそれが神に従うこと、神の掟なのだという。
幸い
神を畏れて、神に従って歩むこと、主を愛し、主に仕え、主の戒めと掟を守ること、それはあなたが幸いを得ることだ、と言うのだ。
神の命令の中心は、心を尽くして神を愛し、自分を愛するように隣人を愛するということだ。この神を愛することと、隣人を愛することとは別物ではなくて、神を愛するということの具体的な形が隣人を愛するということなのだと思う。神に仕えるという具体的な形が隣人に仕えるということなのだろう。
神を愛するとか神に仕えるというのはかっこいい。けれども隣人を愛するとか隣人に仕えるというのは面倒くさいことに思える。隣人から愛されたい、隣人に仕えてもらいたいと思うのが私たちの常だ。
教会に来ても、自分から何か奉仕をするよりも、誰かがしてくれればいいと思う。こんな面倒なこと、大変なこと、どうして私がしないといけないのかと思う。そうやって何もしないことは確かに楽だろう。隣人に仕えるなんてしんどい面倒なことだ。そうすることが神に仕えることだなんて言われても私にはできない、年も取ってるし才能もないし、そんなに暇でもないし、誰かもっと適当な人がいるだろうし、と思う。
けれどもこの聖書は言う、神を愛し神に仕えること、神の戒めを守ることはあなたが幸いを得るためなのだ、その幸いを得ることを神が望んでいるのだと。あなたに幸せになってほしいから、神はその方法を教えているのだ。それが神を愛し神に仕えること、神の戒めを守ることなのだ。
恵み
マタイによる福音書18章に、仲間を赦さない家来のたとえが出てくる。六千億円の借金を棒引きにされた者が、自分に百万円の借金があるものを赦さなかったというようなイエス・キリストのたとえ話だ。こんな話しを聞くと六千億円を赦して貰ったのに、それに比べたらはしたがねのような百万円を赦さないとはなんというひどい奴だと思う。けれども人はえてしてそんなことをしているのかもしれない。
神にすべてを赦されているのに、赦されたからと思ってもう神の命令を聞くことをしないならば、この六千億円を赦してもらいながら百万円を赦さなかった者と同じようなものだ。苦しいときにいっぱい助けて貰っていながら、誰かが苦しんでいる時に知らん顔しているとしたらそれも同じだろう。
苦しいときに助けられることは嬉しいし幸いなことだ。そして苦しんでいる人たちを助けることは本当はもっと嬉しいことで、もっと幸いな事なんだろうと思う。だからこそこの申命記は隣人を、特に孤児や寡婦や寄留者を助けなさい、愛しなさいというのだ。
ユダヤ人たちが、自分達は割礼を受けた選ばれた民、あいつらは割礼を受けない汚れた民という見方をしていたように、私たちも自分達はバプテスマを受けた救われた民、あの人たちはバプテスマを受けてない救われていない民なんていう見方をしがちである。申命記は心の包皮を切り捨てよと言われる。形がどうであるかよりも心に割礼を受けているかどうかが大事なのだということだ。私たちにとっては心にバプテスマを受けたかどうか、そっちが大事なのだ。バプテスマを受けているかどうかというよりも、神の言葉をしっかりと聞いているか、神の命令に従っているか、神に仕えているかどうか、奉仕しているかどうか、隣人を愛しているかどうか、それこそが大事なことなのだ。
神はそうしなさいという。困っている人や苦しんでいる人を助けなさい、愛しなさいという。あなたたちが苦しんでいる時に助けられたように助けなさいというのだ。
それは私たちが幸いになるためなのだ。幸せに生きるためなのだ。私たちは自分のものをいっぱい溜め込むことが幸せになることのように思っている。ものやお金をいっぱい持っていることが幸せで、それが減ってしまうことはそれだけ不幸せになることのように思っている。あるいは神から恵みを一杯貰って、周りの人からもいろいろと世話をしてもらうことが幸せのように思っている。
でもそうじゃない。確かにいろんなものをいっぱい持っていることや、いろんなことをしてもらうことは嬉しいことだ。しかし聖書は、献げることこそが本当の幸いだという。自分の持っているもの、お金もそうだし、自分の才能や時間を神のために、隣人のために献げること、使っていくこと、それによって幸いになるのだ。
幸いでないと感じているならば、それはきっと献げていないからだ。神のために隣人のために自分のものを使わないからだ。
新会堂ができて、よかったよかったと思っているだけなら幸せにはならない。そこで与えられた恵みを今度は周りの者たちへ与えていくことで幸せになるのだ。幸せになりたい人はどんどん献げてどんどん奉仕すればいい。幸せになったから奉仕するんではなくて、幸せになったから献げるんではなくて、幸せになるために奉仕し献げるのだ。
幸せになることを神は望んでいるのだ。そのために愛しなさい、献げなさいと言われている。そんな神の言葉を心に刻みつけて生きていきたいと思う。