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礼拝メッセージより
「そうでなくとも」 2005年9月25日
聖書:ダニエル書 3章1-30節
背景
ダニエル書の内容自体は紀元前6世紀にあったバビロン補囚での出来事となっているが、実際にダニエル書が書かれたのはもっともっと後の紀元前2世紀ごろだそうだ。バビロンのネブカドネツァル王が登場するけれども、これは暗に紀元前2世紀当時にパレスチナ地方を支配していたシリア王国のアンティオコス四世のことを指しているそうだ。
旧約聖書続編の中のマカバイ記にはアンティオコス四世、別名アンティオコス・エピファネスのことが書かれている。彼はエルサレム神殿の財宝を略奪し、神殿の中にギリシャの神ゼウスの像を建てた。律法の巻物を見つけると引き裂いて燃やし、契約の書を隠していることが発覚した者や、律法に適う生活をしている者は処刑した。また子どもに割礼を受けさせた母親は殺し、その乳飲み子を母親の首につるすように命じたなんてことも書いてある。そういう風にユダヤ教を完全に否定しユダヤ教の儀式を辞めさせ、ゼウス像を礼拝するように強要したそうだ。
ダニエル書はそんな時代に、自分達の神を礼拝することを赦されずに、別の神を礼拝するように強要された、そんな風に迫害され苦しんでいるユダヤ人たちを励ますために書かれたものだ。
ダニエル書
ネブカドネツァル王は大きな金の像を建て全国の役人たちを集めて除幕式を行った。そして全国民は合図の音楽が聞こえたら金の像の前にひれ伏して拝むように、拝まない者は直ちに燃えさかる炉に投げ込まれると命令を出す。
そこにシャドラク、メシャク、アベド・ネゴという3人のユダヤ人の役人がいた。彼らは王の命令に従わず金の像を拝まなかった。そこで王は3人に対し、像を拝むのか拝まないのか、拝まないなら燃えさかる炉に投げ込むと脅迫する。お前達をわたしの手から救い出す神があるのか、という。一体どこの神がお前達を救うことができるというのか、ということのようだ。
3人はこれに対し、そんなことは答える必要はない、私たちの神は燃えさかる炉からも王からも救い出すことができる。そうでなくても、王の神々に仕えることも、金の像を拝むことも決してしない、と答えたというのだ。
ネブカドネツァル王は怒って、3人を縛っていつもの七倍熱く燃やした炉に投げ込ませた。引いていった者も焼け死んでしまったけれども3人は無事で、しかもそこには第4の人もいたというのだ。そこでネブカドネツァル王は3人に対して、いと高き神に仕える人びとよ、と語り炉から出てくるようにと言った。3人は全く燃えることがなくてにおいもしなかったという。
ネブカドネツァル王はびっくりしてしまって、3人を大事にするようにと命令して、高いくらいにつけたと言うのだ。
そうでなくても
神は私たちを必ず助け出してくれる、どんな害にも遭わせることはない、祈れば必ず答えられる、と言えればどんなにいいだろうかと思う。そう信じることができ、実際必ずそうなるのならばどんなにいいだろうかと思う。
しかし実際にはいつもいつも自分達の願いどおりに、祈ったとおりに事が進んでいくわけではない。そんな時、願いどおりにならないのは私の祈りが足りないから、信仰が足りないからそうなったのだということになりそうだ。
けれどもそんなに単純に、しっかり祈ればしっかり信じていれば自分達の願いどおりになる、というのが私たちの信仰なのだろうか。神さまは私たちが一所懸命に願えば必ずその願いをかなえてくれる方なのだろうか。そうやって願いをかなえてくれるから私たちはこの神を信じているのだろうか。
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、王から金の像を拝まないと燃えさかる炉に投げ込むと脅かされたのに対してこう答えた。私たちの神は燃えさかる炉からも、王からも私たちを救うことができるし、救ってくれる。そうでなくても王の神々に仕えることも、金の像を拝むこともしないと答えた。
自分達の神は自分達を救い出す力もあるし、きっとそうしてくれるだろう。しかしそうしてくれなくともこの神を捨てて他の神を信じることはない、というのだ。三人にとって神は自分達を救い出す力があることは十分分かっている。しかしここで自分達を救ってくれないならばもう自分達の神ではない、なんていう考えは全くない。自分達の願いを叶えてくれたら礼拝し、かなえてくれなければ礼拝しないなんていう考えは彼らには全くないようだ。
神が何をしようとしまいと神は神である。天も地も創造し全てを支配している神であれば、他の神に乗り換えることもできるはずもない。そんな神を信じている、そんな神に従っている。神は自分達の願いを叶えてくれるロボットではない。三人はそのことをよく知っていたのだと思う。
そしてたとえ自分達の願いどおりにならないとしても、神は自分達を見捨てることはないし、たとえそこで燃えさかる炉の中に投げ込まれたとしても神が共にいてくれる、あるいはそこで死を迎えたとしてもそれでも神が支えてくれることをこの三人は分かっていたのだろう。
この物語では彼らは全く害を受けず無傷であった。しかし現実はいつもこんなふうに助けられるとは限らない。私たちも人生の中で火の中に投げ込まれるような大変辛いことを経験することもある。とても平気でいられず、悩み悲しみ傷つくこともある。しかしそんな時も私たちは決して神から見放されることはない、それがこの物語が語っていることなのだと思う。第四の人が三人と一緒に火の中にいたことが書かれている。私たちが火の中に投げ込まれるときも、神はきっとそこに一緒にいてくれる。あるいはそこで傷つき倒れても、きっとそこにいてくれる。
私たちの神はそんな神なのだと思う。自分の願いどおりになんでもかなえてくれるロボットではないけれ。けれども、どんな時でも、いつまでも決して見捨てず共にいてくれる、それが私たちの神なのだ。
結果
そんな信仰があったから三人は王の命令を拒否し、毅然とした態度で自分達の信じる道を貫くことができたのだろう。おかしいことはおかしいと言い、できないことをできないと言えた。そしてそのことを通して王も神の偉大さを知ることになったというのだ。
私たちは結果を気にしすぎているのかもしれない。祈った結果、信じた結果がどうなるのかということをとても気にする。確かに気になる、しかし結果は神の手の中にある。全ては神の手の中にある、そんな神を私たちは信じている。
大丈夫だ、結果を気にせず神を信じてその信仰を貫きなさい、それがダニエル書が私たちに対して勧めていることのだろう。