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礼拝メッセージより
「惑わされないで」 2005年9月18日
聖書:マルコによる福音書13章14-23節
お上りさん
田舎に生まれて育ったので都会に対して相当な憧れがあった。僕にとって憧れは、今治であり、松山であった。東京なんてのは憧れ以上のものがあった。ほとんど夢の世界に近かった。
初めて東京に行ったのは中学一年の時の冬休みだった。たまたま兄貴が東京の専門学校に行っていたのでそこにいった。一人で当時の国鉄を使って東京駅まで行った。当時は新幹線が岡山までしかきてなくて、まず高松に行って、宇高連絡船に乗って宇野まで行き、そこから岡山まで行って、やっと新幹線に乗る、というルートで行けばいいということで親父が切符も手配してくれた。
びっくりしたのはここの駅はここにつくからこっちへ行けばいい、ここの駅はここで降りてここを通ってここで乗る、というふうに地図に書いてくれたことだった。どうしてこの人はそんなによく知っているんだろうと思った。そういうわけで初めて東京に行ったわけだが、何日も前からわくわくしていた。そして実際に行ってからは、どこまでも続く町並みと高層ビルにびっくりして何回も何回も高い建物を見上げていた。東京タワーとか新宿ののっぽビルの下に行ったときにはいつも上ばかり見ていた。見るからにお上りさんだったことだろう。
神殿
イエスが神殿の境内を出ていく時に弟子の一人が、神殿を見て、「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と言ったと書かれている。弟子たちはガリラヤ出身で、要するに田舎者だった。エルサレムは彼らにとってはきっと大都会だったに違いない。そして彼らも当然ユダヤ教徒だったわけで、その神殿は特別の思い入れのあるものだったことだろう。これはすごいという感激の言葉をはく気持ちもよくわかる。そして実際その神殿はそうとう立派なものだったのようだ。弟子たちはイエスについて神殿にやってきて、そしてイエスが神殿で何をして、何を論じていたかを見たり聞いたりしてきたはずだ。神殿で商売をしている人たちを神殿から追い出したりしたことも見ていたはずだ。しかしそれでも神殿に対する思い入れはあまり変わっていない。
しかしイエスは、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言った。実際紀元70年には神殿は破壊されてしまっている。弟子たちは、「それがいつ起こるのか、その時にはどんな徴があるのか」と聞く。イエスの答えは「戦争があり、地震があり、飢饉がある」というものだった。しかしこれらは苦しみの始まりだとも言う。まだ世の終わりではない、と言う。
世の終わり
正に今がその世の終わりだと思えるようなことがいろいろと起こっている。相変わらず戦争があり、地震があり、飢饉がある。だから世の終わりなのだと言う人もいる。
この世の終わりを言うときに、イエスは神殿の崩壊を告げている。民衆にとって、また弟子たちにとっても神殿は特別のものだった。その神殿が崩壊すること、そして世の終わりがくることが告げられる。この世の秩序が崩壊して、そのあとにメシア、キリストがやってくる、と言うのだ。だからキリスト、ここでは人の子と言う言い方になっているが、人の子がくるとき、それが世の終わり、終末の時であるというのだ。しかしその前に偽メシアが現れると言われている、だから気をつけなさい、偽メシアに惑わされないようにしなさいというのだ。偽メシアにではなく本物のメシア、イエスに従いなさいということだ。
イエスに従う
イエスに従うと言うことは新しい出発でもある。イエスに従うと言うことは、イエスに頼ることだ。イエスに希望を持つことだ。新しくなると言うことは古いものを脱ぎ捨てることでもある。弟子たちにとっては神殿に対する古い思いが捨てきれないでいた。神殿に対する憧れを抱いたままだった。だからイエスについて神殿にやってきても、イエスの話を聞くよりも神殿を見ることに忙しかったのかもしれない。イエスよりも神殿の方が彼らの心の中では真ん中にあったのかもしれない。
家をきれいにしようと思うときに、一部分を直す方法と、全部建て直す方法がある。
イエスを信じると言うことは、イエスに従うということは新しい家を建てるようなものだ。新しい家を建てるためには古い家を壊さないといけない。でも人は古い家をなかなか捨てられない。弟子たちが神殿に対する思いを捨てられなかったように、昔の思い、信念、慣習を捨てられないということがある。
もちろんイエスを信じていないというわけではない、しかし根本は昔のままというようなことがある。古い家の上に新しい家を継ぎ足したようなことになっていることがある。
クリスチャンになったのに、子どもの頃から関わっている神社のお祭りに毎年熱狂するということを聞いたことがある。そんな表面的なことは大したことないのかもしれない。それより大変なのは、クリスチャンになったのに、考え方が何も変わらない。イエスよりも他のものに頼る、他のものの方を信じることがある。御言葉よりも聖書の言葉よりも、他のものを信じることがある。聖書よりも他の人の言葉、一般常識、自分の信念を信じることがある。イエスの言葉よりもそっちの方を大事に、優先しているとしたら、それはイエスに従っているのではなく偽メシアに従っているということになる。偽メシアと言っても必ずしもどこかの宗教団体の教祖だけではないのだ。
私たちが当たり前だと思っていることが、イエスをどこかに押しやっていることがある。そのためにイエスが見えなくなり、イエスの言葉を信じられなくなっていることがある。
お前はだめだ、だめだ、と言われ続けた子どもにとってはそれが偽メシアだ。俺はどうでもいい人間だ、だめな人間だと思っているなら、それが偽メシアの仕業だ。イエスが、お前が大事だ、お前が大切だ、お前を愛していると言っている、そのことを信じられないなら、そんなこと言われても俺はやっぱりどうでもいい人間なんだと思っているなら、それは偽メシアにだまされている。お前を愛しているというイエスは信じないで、お前は駄目だと言った偽メシアの方を信じている。
紀元70年頃に、戦争が起こり、多くの民が戦い、実際に憎むべき破壊者が神殿を崩壊したそうだ。そして今でも戦争は続き、飢饉も地震もある。しかしそれが世の終わりではない。やがていつか終わりは来る。しかしまだ来ない、しかしずっと来ないわけではない。だから気をつけていなさい、とイエスは言われる。人生の中にも苦しいことがいっぱいある。でもそれは神から見放されての苦しさではない。どんな苦しみもいつか終わりが来るのだ、だからそれまで耐え忍びなさいというのだ。
気をつけるとはイエスに従うことだ。ただイエスに聞くことだ。心の真ん中にイエスの家を建てることだ。やがて壊れるものに継ぎ足して立てるのではなく、全く新しい家を建てることだ。そしてイエスに従って行こう。イエスに聞いていこう。やがて崩れ去る物にではなく、イエスに頼って生きていこう。