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礼拝メッセージより
「欲しがらない」 2005年9月11日
聖書:申命記5章6、21節
売り込み
教会にいても売り込みの電話がかかってくる。コピー機買い換えませんかとか、FAXを新しいのにしませんかとか。
世の中の多くの会社は物を売ることで成り立っている。物をいっぱい売ることで儲けが出るという仕組みになっている。必要だから買いませんかということよりも、一所懸命に売り込んで欲しいなと思わせて買わせようとしているように感じることも多い。本当に必要なものを買うよりも、必ずしも必要ではないけれども欲しいから買う、なんてことが多いのかもしれない。
そんな風に、基本的にあれも欲しい、これも欲しいという欲求を一杯持っているから、その欲求をくすぐられると何とかして手に入れようなんて思ってしまう。そして手に入れたはいいけれども、ほとんど使っていないなんてものも結構ある。普段はあまり気が付かないけれども、家の中を片づけていたり、引っ越しをしたりすると、使っていないいらない物がいっぱい出てくる。昔使っていて今は使わなくなったというようなものならいいけれども、ほとんど使わなかった、買ったときだけ使ってそのままなんてものも結構ある。それだけお金を節約しておけばなんて思うくらいだがなかなか止められない。
十戒
隣人のものを欲しがってはいけない、妻も家も畑も奴隷も牛もろばも欲しがってはいけない、と聖書は告げる。しかし欲しがらないというのはなかなか難しい。
旧約聖書に登場するイスラエルのダビデ王という立派な王様は、部下の妻を気に入ってしまって奪ってしまい、妊娠させてしまう。そのことを何とかして誤魔化そうとしたけれどもうまくいかず、結局その部下を戦場の最前線へ行かせて戦死するようにしむけた。妻を奪うことが殺人の引き金になってしまった。
現実には欲しがることで争いが起こっている。イラクの戦争も結局は石油の儲けをあいつらに独り占めさせたくない、自分達のものにしたいということから起こっている面があるように思う。アメリカとイラクが戦争し、国内でもシーア派とスンニ派が争っている。その結果一体誰が儲けるのだろう。誰かがきっと大儲けするんだろう。でもそのために大勢の人を巻き込んでの戦争となり、多くの人が死んでしまっている。
日本の国の中でも、企業は必死に物を売り込んでお金を儲けようとしているように見える。富をなんとかして自分が多く手に入れるために、朝から真夜中まで働いている。そうやって必死で物を売りつけてお金を奪い合っているように見える。人間的な生活なんてことよりも、兎に角儲けることが優先されている、お金を手に入れることが第一になっているように見える。その結果が多くの人が疲れ切ってしまって、最悪の場合は過労死とか自殺とかいうことになっているのではないかと思う。命も家庭も顧みずに富を奪い合い、その結果毎年大勢の犠牲者が出ているというのが日本の現実でもあるような気がする。
欲しがること
しかし私たちには欲しがるという本能のようなものがある。特に隣人が持っているからこそ欲しがるというのもある。周りの誰も持っていないものは、たとえテレビでいくら宣伝されて欲しいと思ってもさほど切実ではない。すぐ近くにそれを持っている人がいるからすごく欲しくなる。そしてどんどんどんどん新しい物ができてくる。だから今の時代は欲しがらないということは余計に難しい時代なのだと思う。
分かち合うこと
欲しい気持ちをなくす事は難しい。きっと無理だろう。ならばどうしたらいいのだろうか。そんなこと言われても無理ですというしかないのか。
少し見方を変えることが大事なのではないかと思う。欲しい欲しいと思っている時ってのは自分のことしか見ていない。あの人の持っているあれがほしい、と思うときは、あの人は見てなくてあれしか見ていないだろう。
その自分のことしか見ていない見方を変えて、もう少し広い範囲を見て自分と自分の周りの人たちのことを見るようにすると少し考え方が変わるかもしれない。
欲しいと思っていた何かを手に入れた時は確かに嬉しい。手に入れたことを誰かに自慢することも確かに嬉しい。でもそれよりも、手に入れたことを誰かと一緒に喜べることが一番嬉しいことだと思う。
とっても嬉しいことがあったときには誰かに話したくなるだろう。人間ってのはそうやって嬉しいことを誰かと共有することで喜べるんだと思う。嬉しいことを独り占めして自分だけで握っているよりも、みんなに話してみんなで喜ぶことの方が遙かに嬉しいことと思う。
そんな風に、人は自分が隣人のものを欲しがって奪って自分のものを増やすことでは喜べない。
与えること
イエスは、ただ欲しがらないというだけではなく、与えなさい、愛しなさいと言われた。欲しがるという気持ちを完全になくすことはできないと思う。欲しがる気持ちはあっても、与えることもできる、愛することもできるのだと思う。イエスは受けるよりも与える方が幸いだと言ったと聖書に書いている。
いろんなものを与えて貰うことは確かに嬉しいけれども、それよりも与える方が幸せなのだと言った。欲しがるなというのも実は幸せになる方法を教えてくれているのだと思う。そして与えるということはもっと幸せになる方法なのだ。でもついつい受け取ることを考えがちではある。
教会にいろんな才能を持った人がやってくると、あれをしてもらおう、これをしてもらおうとすることが多い。外国の人が来ると外国語を教えて貰おうなんて思い、楽器が出来る人が来ると演奏して貰おうとすぐに思ってしまう。
与えて貰うことをすぐ考えてしまう癖が教会にもあると思う。与えて貰うこともいいだろう、けれどもそれよりもその人たちのために自分達が何かを与えることの方がずっとずっと嬉しいことだ。大したことはできないかもしれないが、少しでもその人のために何かができることの方が断然幸せなことだと思う。
隣人のものを欲しがるなと言われて、では隣人を見ないようにするのではなく、与えるために、また愛するために隣人を見ることが大事なのだろう。そしてそれが私たちの幸せになるのだ。