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礼拝メッセージより
説教題:「偽証するな」 2005年9月4日
聖書:申命記5章6、20節
事件
昔ロッキード事件というのがあった。アメリカの会社が飛行機を売るのに、日本の政治家に賄賂を渡していたという事件だ。
その事件が発覚して、議会で証言したときのことがテレビに写されていた。日本の関係者が証人として国会に呼ばれた時に、その中の一人は宣誓書か何かに自分の名前をサインする時に手が震えていた。そして証人たちは記憶にございません、と繰り返していた。アメリカでも同じように議会で証言している姿がテレビで出ていた。飛行機を造るメーカーの人だったと思うが、その人は聞かれたことに対して素直に答えていた。
日本では会社を守るために偽証することや知らなかったことにすることは当然のことのように思われているみたいだ。会社にとって都合の悪いことは何とか隠そうとする。そのためには自分が嘘をつくことは仕方ないこと、それどころか会社からは誉められることのようになっていると聞いたことがある。だからアメリカの飛行機メーカーの人が、議会での質問に素直に答えていることが不思議だった。そんなに答えてしまっていいんだろうかと思ったことを覚えている。
ストレス
身内の恥は世間にさらしてはいけないような風潮が日本にはあるような気がする。だから自分の会社のためには嘘もつく。しかし国会で偽証するなんてことは相当なストレスに違いない。自分の名前も書けないほどに震えていたのは猛烈なストレスがあったからだろうと思う。隠しておかないことがあるというのは相当な苦痛だろう。
会社を守るため、あるいは自分を守るためということもあるだろうけれども、偽証をするとか嘘をつくことで、相手の攻撃から一時的に身を守ることはできる。でもその嘘をずっと守っていかないといけないというのは相当な苦痛が伴う。エネルギーも必要だろう。
他の事件でも、警察に取り調べを受け始めると真実を語る前に自殺してしまうことがある。嘘を突き通すことはできない、けれど本当の事を語ると誰かを見捨てることになるとかそんなことがあるような気がする。
兎に角偽証するということは偽証する本人にとっても相当な苦痛を強いられることになるような気がする。
偽証するな
聖書は偽証してはいかん、と言っている。アメリカの議会で素直に答えていたのは、そんな背景があったからかもしれない。結局神さまには隠し立てはできないという気持ちがあるような気がする。そして素直に答えるというのは、自分の間違いを自分で喋るということでは辛いことではあるけれども、それ以上嘘をつかなくていいという面ではとても気楽なことだ。自分の間違いや悪を突きつけられることは苦しいことではあるけれども、そんな自分をそれ以上隠しておく必要がなくなるという点ではそこからとても楽になれることでもある。
神
結局神がいるかいないか、神を信じているかいないかの違いなのだろう。神がいないとき、自分の会社や自分の仲間が最高のものになる。会社や仲間を守るためには仕方ない、と言われると断れなくなる。そのためには偽証もするし嘘もつけないといけない。会社や仲間が自分にとって一番の権威であるならばそれに逆らうこともできない。自分を犠牲にしてもそれを守らないといけないということになる。そうやって自分達を守ることが美徳でさえあるという面があるらしい。
しかしそれは自分を苦しめることになる。会社を守ることが自分を守ることだと思うから偽証をしてでも会社を守ろうとするのだろうけれども、逆にそのために自分を苦しめるということになってしまっている。
神がいるなら、神を信じているなら偽証する必要はない。偽証してはいかんという神の命令に従わないといけないということでもあるが、そこからはもう正直になっていい、そのままでいいということでもあるように思う。嘘をつくという苦しみから解放されるということでもあるように思う。
正直でいなさい、後は私に任せなさい。嘘をついてまで自分を守る必要はない、嘘をついて誰かを守る必要もない。私がすべてを支えているのだから、あなたは正直でいなさい、神はそう言われているのではないか。
隣人
また反対に、隣人を守るためには自分の知っていることを正しく証言しなさいと言われているのだろう。こんなこと言ったら誰かに変な目で見られるかもしれない、自分も隣人と一緒に非難されるかもしれないなんて時には、証言することにしりごみしてしまうことがある。そんな時には隣人に関してわざわざ証言したくないという気持ちもある。でも結局はそれも自分を守るために証言しないこと、偽証することと本質は同じなのではないかと思う。
大丈夫だ、後は私が支える、私はすべてを知っている、だからあなたは隣人と共に生きなさい、隣人と助け合っていきなさい、そう言われているのではないか。それはおかしいことをおかしいと言っていくことでもあるのだろう。不当に苦しめられている人のことに目を向けていくということでもあるのだろう。そうやって隣人を顧みていくことを神は求めている。私たち自身がそうやって神に憐れまれているからだ。神は私たちに、自分を守るために偽証するのではなく、反対に自分を差し出して生かしあっていくようにと言われている。