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礼拝メッセージより
説教題:「神の杖」 2005年8月28日
聖書:出エジプト記 4章1-20節
神学校
高校生で登校拒否をして途中休学ということになって卒業までに5年かかった。大学も一年留年して卒業までに5年かかった。それでも何とか就職したが、研修が終わってすぐに勉強のために出向に出された。勉強のためということだったけれども実際やっていることは小間使いみたいなことが多かったような気がする。そのこと自体はどうってこともなかったけれども、たまたまそこでついた上司がやたらうるさい人だった。何か間違いをすると大声で怒鳴られた。一部屋に100人位いるような送変電システム設計部とかいうところにいたけれども、その部屋の端っこまで聞こえるような声で度々怒鳴られていた。それに対して言い返せればそうでもなかったのかもしれないが、怒鳴られることが苦痛で苦痛で仕方なかった。仕事辞めたいと思う気持ちもけっこうあったし、時々休んだりもしていた。でもそのままずっと行かなくなると、かつての登校拒否と同じになってしまうのではないかという恐れもあったので、いやいやながら会社には行っていた。
一度その上司が、仕事帰りに何か食べにいこうなんて言い出して、そうはいっても仕事が終わるのは10時とか11時とかいう感じだったので、もう遅いしなんて断ろうとしたけれども半ば強引に連れて行かれたことがあった。そうしたら店に入るとなぜか結構優しくて、最初の仕事にしては結構上手くやったなんて言っていた。それからはやさしくなるかと思ったら会社の中では相変わらず怒鳴ってばかりだった。
登校拒否した時から教会に行くようになっていて、その頃に行ってたのは日立伝道所だった。ある時牧師が、神学部のポスターか何かを見ながら、浅海君西南の神学生募集してるよ、と言ったことがあって、それに対して僕は、そうですねえ、行きましょうか、なんて応えたことがあった。そうやって冗談を言うほどにその時には神学校へ行く気などまるでなかった。ところがそれからしばらくしてから、ふと神さまから神学校へ行くようにと言われているような気がした。その頃会社ではコンピューターの端末の前に座って、EMTP(Electro-Magnetic Transients Program)とかいうプログラムで送電線の事故が起こった時の電流を計算させていて、データを入れてからコンピューターが結果を出すまでしばらく待つという時間が結構あって、神学校行きのことをよく考えていた。
最初は何かの間違いに違いない、勝手な思いこみだ、今の仕事がいやだから逃げようとしているだけに違いない、だから結論をすぐ出すのはよそうと思った。もし一週間たっても考えが変わらなければ、それは本当に神さまからそう言われているのだろうと考えた。そして一週間経ったけれども神学校へ行けと言われているのではないかという思いは消えなかった。そこで仕方なく、一週間を一ヶ月に変更した。一ヶ月変わらなければきっと本物だろうと考えた。
でも牧師になんてなれるのかという気持ちと、あんな大変そうなことしたくないという気持ちとをずっと抱えたままだった。だいたい人前で話しをするのが大嫌いだった。けれども、それでもなぜか神学校へ、神学校へという思いがずっとつきまとっていて、心の中は消そうにも消せないもやもやで一杯という感じだった。
結局一ヶ月経っても変わることがなかった。だったら神学校へ行こうと踏ん切りをつけた。そうすると工場の屋上から見る景色が違って見えた。工場の木が輝いて見えた。
そんな風に僕の神学校への道は全然かっこいいものじゃない。
けれど、聖書の中には親近感を持つ人が結構いる。そのひとりがモーセだ。
モーセ
モーセはユダヤ人たちをエジプトから導きだした人として結構有名だと思う。当時ユダヤ人たちはエジプトで奴隷として働かされていたそうで、そのユダヤ人たちを率いてエジプトを脱出させたのがモーセだった。
3章7節以下にそのことが書かれている。ところがモーセは神の命令を聞いて、すぐに、ハイそうですか、と従ったわけではなかった。最初のモーセの返事は、3章11節。その後もいろいろと神さまに対して反論を繰り返す。「わたしは一体何者でしょう。」、「神さまの名前を聞かれたら何と答えましょうか」。やっぱりそんな事は出来ない、と言っている。
出来ない、出来ない、と言っているモーセに対して神さまは一つ一つ答えて言っている。それでもモーセはなかなか決断出来ない。4章のところでは1節。これに対して神さまはいろいろなしるしを見せて、モーセを勇気づけようとする。モーセが手に持っていた杖を蛇に変えて、その尾を取るとまた杖にもどるということを見せている。次に手をらい病にするしるしを見ても、まだモーセの不安は解消されない。神に従う決心ができない。行動を起こす決断が出来ない。10節。あなたが話すべきことは私が教えるから大丈夫なんだ、と神さまは言うが、なおもモーセは13節にあるように「他の適当な、ふさわしい人にしてください。」と言う。それに対して神さまはとうとう怒って、アロンがあなたの代わりに話すから心配するな、とモーセをたしなめる。
モーセの心配も当然だろうと思う。その時モーセは、ユダヤ人をいじめるエジプト人を殺したためにファラオに命を狙われてエジプトから逃げてきていた。神さまの命令は自分の命の危険の有るところへわざわざ帰っていけということでもあるわけだ。どうなることかといろいろ心配するのも当然だっただろう。それにモーセは自分が本当はエジプトからイスラエルの人々を連れ出すような、そんな人間ではないことを一番よく分かっていたのだろうと思う。どうも口べただったか、面と向かって話しをするのが苦手だったらしい。結構小心者だったのかもしれない。神の言葉に従おうとする気持ちが全くなかったわけではないだろうが、いっぱいの不安との間で葛藤しているように思う。とんでもない難題を突き付けられてとてもじゃないが出来るわけがないので止めさせて欲しいと言う気持ちの方が強いのかもしれない。
モーセの今後の行く末は全く見通しも立たず、いつになったらエジプトを出られるのかも分からず、その上ファラオも容易に出国させてくれそうにもない。その時モーセは何を考えていたのだろう。これから先に大変な事が待ち受けているであろうということだけである。なんと心許ない状況だろうか。その後、順調にことが運べば、不安も解消されていくだろう。さすがに神のすることはすばらしい、と言う気にもなる、自分にも自信を持てるようになるかもしれない。
しかし実際にはその後何回も奇跡を行ったにもかかわらず、ファラオはなかなかイスラエル人をエジプトから出させようとせず、ますます重労働をさせるようになり、モーセはお前のために余計に辛くなってしまったというユダヤ人と神さまとの間に板挟みのようになり、辛い思いをすることになってしまう。
約束通り出エジプトはするけれども、その後モーセは民と神との間で何度も何度も板挟みになり、その度に神に対して嘆くということを繰り返している。
そこのところに僕はモーセに親近感を持つ。
しかしそんなモーセを神は用いていった。そんなモーセを通して神はユダヤ人たちをエジプトから導き出した。
モーセは神の命令だからといって文句ひとつ言わず黙々と従っていたわけではなかった。しばしば嘆いたり文句言ったりの繰り返しだった。なんでこんなことになるんですか、こんなことのために私を選んだんですか、もうやってられないよ、そうやって神に思いをぶつけている。愚痴も嘆きも神にぶつけている。5章22節にも「わが主よ、あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」とあるように、実際にファラオにあって奇跡を行い、しかし主が予告した通り、ファラオが心をかたくなにしたときにも愚痴をこぼしている。そう言う点ではとても正直だと思う。自分の思いを正直に神に訴えてきたから、神もそれにしっかりと答えてきたというか、正直に神に訴えてきたから、神の声も正直に聞くことができたのかもしれないと思う。
神の杖
神はそんなモーセを用いていく。ただの杖であったものが、20節では「神の杖」となっている。神の杖を持ってモーセはミディアンを出発した。この杖を握りしめてモーセはエジプトへと向かっていったのだろう。自分が逃げてきたところへもう一度帰って行くのだ。ユダヤ人たちを救い出すためという神の命令ではあるけれども、そのユダヤ人たちからの信頼もない。自分でどんなことでも切り開くという自信もなかったのだろう。そんな才能もあるかどうか分からない。あるのは不安ばかりだったのだろう。
頼るとしたらただ神にしか頼ることができない。神がついているというかすかな証拠、それが神の杖だった。この神の杖を握り締めていなければとても出て行けなかったのでは。この神の杖にもたれかかるようにしてモーセは出て行ったのだろう。不安を振り払っていさんで出発したわけではないだろう。不安を一杯抱えたまま、それでも神が共にいるという、それだけを希望に神の命令に従っていったのだと思う。
そして神はこのモーセを通して大きな働きをなされた。神はそんな不安だらけの人間を用いていった。
神が共に
僕は相変わらず不安だらけだ。不安をいっぱい持って牧師をしている。本当は立派な牧師でいれたらいいと願う。バリバリ仕事をこなし、教会をしっかりとまとめる力を持ち、いろんな才能を持ち、饒舌になりたいと思う。なりたいと思うけれどもなれない自分を嘆く。
モーセもあれがない、これがないと嘆いていた。けれども実は神の杖さえあれば大丈夫なのかもしれない。モーセは神の杖だけを握りしめてエジプトへと帰っていった。神の杖、それは神が共にいるというただひとつの証拠だった。神が共にいるということ、それが一番大事なこと、そしてそれさえあれば他に何もなくても一歩を踏み出せるようだ。
不安があってもいいと思う。嘆くこともあっていいと思う。それらを神にぶつけていけばいいんだから、モーセのように。
こんな私たちを神は招いてくれているのだから。こんな私たちと神は共にいてくれているのだから。だから私たちは神についていく、神と共に生きるのだ。