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礼拝メッセージより
説教題:「あなたは?」 2005年8月21日
聖書:申命記 5章6、17-19節
なぜ殺せるのか
人はなぜ人を殺すのか。殺したいと思うのはどういうときなのか。殺したくなるほど憎らしく思うときもある。もし家族を殺されたらやり返したいと思うような気がする。憎らしいと思っている相手を殺したくなる気持ちは分かる気がする。
でも戦争になると人を殺す。なぜ戦争するのか。何かを奪うため、自分の物を奪われないためのような気がするが、戦争になって命令されたら憎らしくなくても殺すのだろうか。殺せるのだろうか。それとも憎らしいと思って殺すのだろうか。高いところから爆弾を落とすとか、離れたところからミサイルを撃つというような時にはあまり殺す感覚はないのかもしれないが。相手が見えなかったら殺すのはたやすいのだろうか。
殺すな
普通どこの社会でも、基本的には殺してはいけないと言われているだろうと思う。ではどうして殺してはいけないと言われているのだろうか。殺し合いをしていては社会が崩壊してしまうということもあるだろうが、ただそのために殺してはいけないというよりも、いろんな理由があるような気がする。けれどもこのためにしてはいけない、という誰もが納得するような理由を見つけるのは案外難しい。殺すことは悪だという気持ちはあるけれども、なぜ悪なのかと考えると、自分も殺されないためとか、そんなの当たり前だとかいう理由位しかすぐには思い浮かばない。殺すと捕まるから、罰せられるからという理由もあるが、それだけではない何か赦されないものがあるように感じてはいるがなぜなのかというはっきりした理由がなかなか見つからない。
キリスト教関係の者は、人は神が作ったものだから殺してはいけないのだ、という言い方をする。そんな言い方しかできないのかという気もするが、そうとしか言いようがないという気もする。
姦淫するな
姦淫とは、他の者と結婚しているものと関係を持つこと。
結婚という契約を破ること。家庭の基本は夫婦であるが、その基本の契約を破ることは家庭を壊すことになってしまう。結婚式とはその契約をする時なのだろう。姦淫とはその人との契約を軽んじることだ。
盗むな
盗んではいけないと昔から言われている、と思っていたら最近は万引きがとても多いらしい。しかもあまり罪悪感を感じていないということを聞く。万引きは犯罪であるというポスターがあるが、どこかゲームのような感覚もあるようだ。そうすると今の若い者はけしからん、という話になりそうだが果たしてそうなんだろうか。今の若い者が急に盗むことに対して意識が変わったのかというとそうでもないのではないかと思う。若い者がそうなるということは今の社会がそんな社会なのだきっと。
なんとか詐欺というのが相変わらず流行っている。しかしそれだけではなく、盗みという名前は付かないけれどもいろんな事が起こっている。相変わらず談合は続いている。談合は相手から直接金を取るわけではないけれども、本来相手に渡るはずのお金を途中で盗んでいたり、本当はもっと安くなるはずの料金が談合のために高くなっていることで、相手から余分なお金を取っているとも言えるだろうと思う。
自分が儲かれば、自分の家族や親戚、知人が儲かれば、誰かが損をしようと、国の借金がどれほど増えようと知ったことではない、というような風潮があるように思う。儲けのためには少々悪いことしても構わないという風潮を大人が作ってきているのではないか。若者が気軽に万引きするのはそんな大人たちを見ているからではないかという気がするがどうだろうか。
あなたは
私たちは殺しも姦淫も盗みもしているという意識はあまりない。殺すな、姦淫するな、盗むなと言われても極々当然の事を言っているように聞いている。そんなの当たり前だろうと思っている。
ところがイエスは、こんなことを言っている。(マタイ5章)
5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
5:27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
兄弟に腹を立てる者は殺したのと同じである、みだらな思いで他人の妻を見るものは姦淫したのと同じであるというのだ。
イエスは、殺しなんて罪なことはしていないと思いつつ、兄弟をバカだ愚か者だと思っている者は殺したのと同じなのだと言った。姦淫をする女はけしからんと言って女の人ばかりをせめていた男たちに対して、みだらな思いを持つ男の方に女性以上の罪がある、と言っているのだろう。
ヨハネによる福音書の8章では姦通の女の話が出てくる。
8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。
8:2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
ここでも捕らえて連れてこられたのは女だけだった。しかしイエスはこの女性をかばい赦す。そして「罪を犯したことがのない者が石を投げよ」と言う。
またイエスは徴税人としてみんなから税金と一緒に余計にお金を集めて金持ちとなっていたザアカイの友となり客となった。
殺すこと、姦淫すること、盗むこと、それらはみんな寂しいことだ。寂しい心の持ち主がすることだ。周りから奪い取らねばならないという思いで生きることはとても寂しいことだ。
イエスはそんな者たちに大上段に構えて、それは罪だ、駄目じゃないかということは言っていないようだ。そうではなく、そんな寂しい者の友となり、そんな者たちと共にいるという仕方で彼らと関わっている。人の金をくすねていたザアカイは自分の財産を貧しい人に施すという人間になっていった。ザアカイにとって周りの人間は、奪う相手から一緒に生きる相手に代わった。
あなたはどうなのかと私たちは問われているのではないか。あなたは周りの人とどういう関係にあるのか。奪い取る関係なのか、それとも共に生きる相手なのか。殺すな、姦淫するな、盗むな、それは周りの者と共に生きなさいということなのだろう。奪い合う関係ではなく、共に生きる関係を作りなさいということだろう。私があなたと共にいる、だからあなたは周りの者と共に生きなさい、あなたの寂しさは人から何かを奪っても癒されない、あなたの寂しさは私が癒すのだ、神はそう言われているのではないか。