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礼拝メッセージより
説教題:「互いに尊ぶ」 2005年8月7日
聖書:申命記 5章6、16節
助け合い
人間は助け合って生きていく。
人は元気に生まれてきたとしても、生まれたばかりの時には泣くことしかできない。母乳やミルクをくれる人、おむつを替えてくれる人がいないと生きていけない。そしてだっこして話しかけてくれる人がいないと生きていけないらしい。
だんだんと大きくなっていろんなことが自分でできるようになって、やがて独り立ちしていくようになる間も、保護してくれる人が必要である。そして社会人となって仕事をするようになり、やがて歳を取り、だんだんと体の自由が利かなくなってくると、また赤ん坊の時のように誰かの世話にならねばならない。
実は、どんなに一人前になってばりばり働いていたとしても、ひとりで生きて生ける人はそうはいない。自分の食べ物も、住む家も、切る服も全部自分で作って生きていけるなんて人はあまりいないだろう。お金を出せば手に入るけれども、でも誰かがそれを作ってくれているから買えるわけで、そう言う人がどこかにいるから私たちは生きていける。
だから産まれてから死ぬまでいろんな人との関係の中で生きている。そしてまた人間は、ただ衣食住が足りればそれでいいかというとそうではない。いろんな人とのつながりの中で、ものだけではない心の交流があって初めて人間として生きていける。そしてその根本にあるのは親子の関係だ。
父母を敬う
十戒には父母を敬えと書かれている。父母を自然に敬うことが出来るということは幸せなことだ。しかし現実にはなかなかそう簡単にいかない場合も多い。小さな頃から父母に愛されて来た人にとっては、父母を敬うことは極々当然なことかもしれない。しかし親から苦しめられてきたものにとって親を敬えというのは非常に厳しい注文である。
しかし聖書は条件なしに敬えという。立派な父母は敬え、ではなくただ父母を敬えというのだ。人を憎んで生きていくことは苦しいことだ。憎むべき理由があるからこそ憎む訳だけれども、当然憎むべき理由があったとしても、人を憎んで生きていくことはとても苦しく辛いことだ。しかも憎む対象が親であるとなるとそれは非常に苦しい。
親から受けた仕打ちを赦すことは難しい。しかし赦すことが出来るならば苦しみは随分と楽になる。赦すことで辛さは随分と軽くなるそうだ。親を赦せない、敬うなんてできるわけがない、と思っている間はとてもつらい人生になる。親を赦し敬うことができるということはとても幸せなことだろう。
親との関係は人生の基本的な関係なのだと思う。そこがうまくいくかどうかということが、他の対人関係とに大きく影響してくるらしい。
聖書は父と母を敬え、という。それはそう命令しているというわけではないだろう。敬わないものを責めているというわけでもないだろう。そうではないけれども、敬うことが幸せに生きることの基本であるということを伝えているのだと思う。
もう親は死んでいないから、今更敬うことも赦すこともできないと思う人もいるだろうが、きっとそうではない。たとえ死んでいたとしても、自分の心の中にいる親にいつまでも縛られる。心の中の親にいつまでも責められている人もいる。そんな人に、ただ親を赦せ、敬えと言ってもなかなかそんなことはできない。聖書に書いているからそうするのだなんて言っても、赦せない私は駄目な人間なんですなんて余計に苦しめることになりかねない。
人は愛されて初めて愛することができる。愛されて初めて赦すことも敬うことも出来る。だから親からその愛を受けることができなかった場合、子どもはとてもつらく苦しい人生を送ることになる。
しかしそんな子どもにもまだ希望はある。神から愛されていることを知ることだ。たとえ人に見捨てられても、神からは愛されているということを知ることだ。そしてそれは親の愛に代わらない程、むしろそれよりも大きな力を私たちに与えてくれるものだと思う。
徹底的に、無条件に私たちを愛する、それが神の愛だ。私たちが良い子であるからとか、よく言うことを聞くときには可愛がるけれども、そうでないときには可愛がらないというようなことではない。神は私たちが何かをするとかしないとかに関係なく、いいとか悪いとかに関係なく愛しているのだ。そして私たちのあらゆる罪を赦してくれた、その罪をイエス・キリストに負わせることで私たちのすべての罪を赦しててくれた、そんな神なのだ。そのことを知ること、そのことを受けとめることで、今度は私たちが愛する者となることができる。赦せない親を赦す、敬えない親を敬うことができるのは、そんな風に神に愛されていること、神に赦されていることを知ることで初めて出来ることなのだろう。
約束
聖書は、父母を敬えば、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る、と言われている。親子の関係が尊敬し合い赦し合う関係であるならば幸せになることができる、もうすでにそれは幸せなことだ。家庭の中がそんな愛する関係であるならば幸せなことだ。外でいくらばりばり働いていても、いくら有名になったり、みんなにちやほやされても、あるいはいくらお金をいっぱい手に入れたとしても、家庭の中で心の交流がないならば、愛し合い、尊敬しあう関係でないならば、それはまるで幸せではないだろう。
イエス・キリストは、神の御心を行うものが自分の母、兄弟だと言った。つまり教会とは血のつながらない神を中心とした新しい家庭のようなものだ。教会は神に愛され、そこから互いを愛する新しい家庭なのだ。私が愛したようにあなたたちも愛し合いなさい、それがイエス・キリストの言われたことだ。愛されているから愛していく、赦されているから赦していく、そこに私たちの幸せがある。そんな教会を作っていこう。