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礼拝メッセージより
説教題:「安息日」 2005年7月31日
聖書:申命記 5章6、12-15節
礼拝
十戒
ユダヤ人たちは安息日の戒めを、文字通り戒めとして厳格に守ってきた。仕事をしてはいけないというのが神からの戒めであるのだからということで徹底的に守ってきた。ここにあるように7日目には仕事をしてはいけないということで、週の7日目、すなわち土曜日、と言っても一日が日没から始まるので金曜日の夕方から土曜日の夕方ということになるが、その日には一切仕事をしてはいけないということになっている。それはそれでいいけれども、あまりに厳格になると、では仕事とは何なのか、何が仕事になるのか、これは仕事なんだろうか、これはしては良いんだろうか悪いんだろうかという話しになってくる。ユダヤ教の指導者たちはそのあたりのことを細かく決めているそうだ。今でも安息日になるとユダヤ人地区では公共の交通機関も休みになって、商店も閉まっているそうだ。
そうやって何としてもその決まりを守るというか破らないことに一所懸命だった。しかし聖書の書かれた当時から、その決まりを守るということが形ばかりになること、とにかくその決まりを破らないことが大事になってきていたようだ。
今では、イスラエルのユダヤ人地区に行くと、マンションなどでもエレベーターに一つは自動運転で各階に停まっていくようになっているそうだ。エレベーターのボタンを押すのが労働ということになっているからそうなっているそうだ。なんだかおかしいんじゃないのかという気になるが、彼らはそういうことを守ることに一所懸命になっている。でも何だか本当に大事なことはなんなのかという気になる。
安息
7日目に仕事をせずに安息せよという理由は、15節に書かれているように、「かつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導きだされたことを思い起こさねばならない」からだ。そのために安息日を守れと言われている。
かつてイスラエルの人たちの先祖はエジプトへ移住し、そこで奴隷として働かされ苦しい思いをしていた。そこで神の助けを祈り求めた。そこで神はモーセを指導者として選び、イスラエルの民を救い出した。そのことを思い起こすために安息日を守れと言うのだ。
ただ仕事をするなということだけではなく、それよりも自分達が神によって助け出されたことを思い起こすため、そのことを喜ぶために仕事をするな、と言うわけだ。
だから神は、雇い主だけではなく奴隷も家畜も、その町に寄留しているものも全員休めというのだ。かつて自分達が無理矢理働かされるという奴隷の状態から解放された、だから今度は奴隷たちにも1週間に一度は休みを与えよというのだ。
毎週最後の日を休めというのは使用人にとっては都合の悪い決まり。しかし労働者にとってはきっとありがたい決まりだった。奴隷にとってもそうだろう。自分達が奴隷として苦しんだんだから、そしてそこから助けられたのだから、あなたたちは奴隷をも休ませなければならないというのが神の命令なのだ。
形骸化
そういう風に、安息日の決まりは自分達が神に救い出されたことを思い起こし感謝するためにあった、そのために仕事をするなと言われていた。
仕事をしているか、していないかというのは見れば分かる。何が仕事かという問題は残るけれども、ユダヤ教の偉い先生たちが、これは仕事、これは仕事ではない、これは安息日でもしていい、これはしてはいけないと決めてくれるので、仕事をしているかしていないかというのはよく分かる。けれどもそこでエジプトから救い出されたことを思い起こしているかどうか、そのことを感謝して喜んでいるかどうかなんてのは誰からも見えないしわからない。きっとそんなこともあって、安息日の決まりは、エジプトから助け出されたことを記念するための日であることよりも、兎に角仕事をしない日ということになってしまっていたようだ。それは駄目だ、それは仕事だ、これも駄目だ、なんて言うようないかにも物知り顔の口うるさい人もいたんだろう。うるさい人がいると気持ちはどうあれ、形だけでも従っておこうと思うのは誰もが思うことだろう。きっとそんなこともあって安息日はやたらと細かな決まりを破ってはいけないというような面倒な日になっていたんだろうと思う。
イエス・キリスト
イエス・キリストはそんな形ばかりになっている、安息日の本来の目的を忘れてしまっていることに対して、それはおかしいだろうと言った。
マルコによる福音書2章23節以下に安息日の出来事が出てくる。
イエス・キリストは、安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない、と言った。安息日という決まりを守るために人が存在するわけではない。そりゃそうだ。ところが、現実には、人のために何かをすることよりも、兎に角安息日の決まりを守ることの方が優先されてしまう事態が起こってくる。神がエジプトで奴隷だった状態から助け出してくれた。自分達に良いことをしてくれた、そのことを感謝するため、そのことを記念して安息日を守り礼拝しているのに、安息日を守るためということで隣人に善を行わないということになってしまっていた。本来の目的を忘れて、本当に大事なことを見失ってしまっていたのだろう。イエス・キリストは何が大事なのか、何のための安息日なのかということを問いかけている。
日曜日
多くのキリスト教会はイエスの復活した日曜日に礼拝するようになった。そしてそれはイエス・キリストが私たちの罪のため、私たちの身代わりとして十字架にかかって死んでくれたから、そうやって私たちを助け出してくれたから、そのことを思い起こし感謝するために礼拝している。
だから、ただそれはクリスチャンになったから決まっているからそうしているのではない。それを破ると何か悪いことが起こるからとか、あるいは破ると誰かから、つまり牧師から怒られるから休まないようにしているわけではない。日曜日には仕事をしてはいけない日ではなく、イエス・キリストを礼拝する日なのだ。あの人はクリスチャンなのに日曜日に仕事をしているなんていう気持ちがあるとしたら、それはイエス・キリストが怒ったファリサイ派の人たちと同じ考え方を持っていることになる。そう思っている人がいたら考えを変えた方が良い。
安息
心配ごとがあると安息していられない。
大事に思われていること、大切に思われていることで生きる力が生まれてくる。自分が生きていていいのだという安心感があるからこそ安息できる。
私たちは神の声を聞くため、あなたを愛している、あなたが大事である、あなたが大切だ、という声を聞くために毎週礼拝している。礼拝は神に愛されていることを再確認する時でもある。神に愛されていることを知ることで安息することが出来る。今の自分を愛されている、大事に大切に思われている、そのことを知ることで私たちは本当に休むことができるのだと思う。そして今度は私たちが愛する者になるように、善を行うものになるように期待されている。