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礼拝メッセージより
説教題:「神の名」 2005年7月24日
聖書:申命記 5章6、11節
みだりに
神の名、主の名をみだりに唱えてはいけないという。神の名を唱えることとはどういうことなのだろうか。何で神の名をみだりに唱えてはいけないのだろう。神さま神さまって言うことは悪いことなのだろうか。神さま神さまって言っている人はなんとなく信仰深い人のように思えてきたり、神さまを持ち出すことで敬虔なクリスチャンでもなったかのような気にもなりはするが。
十字架
どこかでこんな話しを聞いたことがある。その地方に野菜の病気が流行した。農家の人がうちの畑は大丈夫か心配していると、それを聞いたある教会の人が俺に任せておけと言った。どうするかと思ったら十字架を作って持ってきて畑に突き刺した。これで大丈夫だ、これでここの野菜は病気にならないと言った。
こんな話しを聞くと、それは違うだろうと誰もが思うだろう。けれどもそれと似たようなことをしがちであるのも事実だ。
みだりに
何か問題が起こると、十字架を持ってきてこれを持っていれば大丈夫だ、というようなことがある。こんなことが心配だと話すと、すぐに神さまがいるから大丈夫だと言う人がいる。神さまがついているのになんでそんなこと言うのかなんて反対に怒られたりすることもある。もちろん神さまがついているんだから大丈夫なんだろうけれども、しかしこんなことが心配なんだという気持ちを聞いてくれるのと聞いてくれないのとでは大違いなのだ。
前の教会で病弱な奥さんがまた入院して心配で心配でという人がいた。二人暮らしで子どももなかった。しかし今回はかなり悪くてもう助からないかもしれないというような時だった。時々電話もかかってきた。二人だけで生きてきたのに、その妻を亡くすことは大変なんだろうなと漠然とは思いながら聞いていた。ある時話しがしたいと言って教会に来ることになった。確か土曜日だった。駐車場に入ってくる時に僕を見かけてうれしそうに片手を上げた光景を今でも覚えている。
ところがたまたまその時教会の婦人が二人教会にいて彼女たちがその人をつかまえてしまった。彼女たちはその人を見つけると、どうしているのか、奥さんの具合はどうか、元気出しなさいよ、あんまり心配しなさんななんてことを言い始めてしまった。それこそ、神さまがついているんだから弱音なんてはかないで、というような調子で話しをしていた。新米牧師は後でその様子を見ているだけだった。そして結局僕とはほとんど話しをしないで帰ってしまった。話しをしたいと言っていたのに。
数日後、彼は自殺してしまった。そしてそれが分かった日の夜に奥さんも亡くなった。そこまで大変だったなんてことは知らなかった。少しは聞いていたけれどそこまで聞けてなかった。奥さんの病状はだいぶ悪くて、もう助からないだろうということは聞いていたが、それまで僕は葬儀もしたこともなくてどうすればいいのかとそっちの方の心配も大きかった。それとお見舞いに行くとだんだんと弱っていく彼女を見て、死に対する重圧のようなものを僕自身も感じていた。だから彼の本当の苦しさは分からなかった。婦人たちが、そんなに気を落とすなとか神さまがついているんだからというように元気に話しかけるのを聞きつつそのままにしてしまった。そのまま帰ってしまったけれども、また次の機会があるさと思っていた。けれども残念ながら次の機会がこなかった。
裁き
神さまを信じているのにどうしてそんななのか、神さまを信じている者がどうしてこんなことをするのか、神の名を簡単に持ち出すときは人を裁き責めてしまうことになりやすい。下手に神の名を持ち出すときってのは、いつしか自分が神になりかわってしまいやすいということなのだろう。
聖書
子どもが大統領の就任式を見て言ったそうだ。宣誓の時には聖書の上に手を置く。しかしよその国へ行って戦争をするのはなぜか。
神の名を語ってテロが起きている。神の名を語ってそのテロを押さえつけ湯音している。神の名を語ることで自分は正しい側にいる、自分は神の側にいる、相手がおかしいということになってしまう。そこには愛がない。
神さまがついているんだから心配するなと言うことで、なんでこの人はこんなに心配ばかりするのか、信仰薄い人だなんて気持ちになってしまう。そうするとその人自身のことが見えなくなってしまう。どんなに苦しんでいるのか、どんなに悩んでいるのかということが見えなくなってしまう。愛するということがなくなってしまう。神の名を持ち出すことで、愛することがなくなってしまうとしたらそれは全くおかしな事だ。
大事なのは愛することなのだ。イエスもいうように一番大事なのは愛することだ。神の名を出すことで愛せなくなってしまう、反対に裁いてしまう、だからこそ神の名をみだりに唱えてはいけないと言っているのではないかと思う。
私たちは飽くまでも罪を持った人間なのだ。神を信じたからといって罪のない人間になるわけではない。清い人間になるわけではない。神の名を持ち出すことでそのことを私たちはついついそのことを忘れてしまう。人間であることを忘れて神の名を持ち出すこと、罪人であることを忘れて神の名を持ち出すこと、そこには人を裁く、人を責めるという危険性がいっぱい潜んでいる。だから神の名を持ち出すことは慎重でないといけない。罪人であるということにしっかりと足をつけていないといけない。そうすると逆に簡単に神の名を持ち出すことが出来なくなってくるように思う。
罪人であるということにしっかりと足をつけた上で、罪人である自分として、同じ罪人である共に、神さまはね、と言うしかないように思う。そうすると、神はあなたにこう語っているじゃないか、という言い方ではなく、神は私たちにこう語っている、私は神からこう聞いているという言い方になるように思う。
神の名をみだりに唱えるな、それは私たちが罪人であることから離れるなということのように思う。しかし神はこんな罪人の私たちを愛してくれているというのだ。神は罪人のあなたを愛しているというよりも、神は罪人の私を愛してくれていると語る、それが私たちにふさわしいように思う。