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礼拝メッセージより
説教題:「見えない神」 2005年7月17日
聖書:申命記 5章6、8-10節
偶像礼拝
偶像礼拝とか偶像崇拝とは像を拝むほかの宗教のことで、キリスト教はそうではないから自分たちとは関係のない話しというようなことを聞くことがある。偶像崇拝をしないようにしましょうというときに、キリスト以外の宗教行事、儀式をしないことというような言われ方をすることがある。
こんな話しがある。ある教会の役員をしている人のお父さんが亡くなった。そのお父さんは教会員でもないのでお寺で葬儀をすることになった。そして家族が話し合って教会の役員をしている長男が喪主をしなさいということになった。ところがそこの教会の牧師は、教会の役員ともあろうものが仏教の葬儀の喪主になどなってはいけない、それは偶像崇拝を推奨することだ、というようなことを言ったそうだ。そこで長男は家族と牧師の板挟みになって悩んでしまった。そしてとうとう葬儀の時には行方不明になってしまったそうだ。
キリスト教以外の宗教に関わることが偶像崇拝なんだろうか。他の宗教に関わらなければ偶像崇拝をしていないのだろうか。多分そんなことではないと思う。よくお寺の葬式に行って焼香をしていいかどうか、というようなことを聞かれる。それは偶像崇拝になるのかどうか、というようなことだ。それがお寺の葬儀のしきたりに入っているならばすればいいと思う。教会の葬儀の時に、俺はクリスチャンじゃないから讃美歌は歌わない、と言われると困ってしまうが、焼香は罪だからしない、と言うことはそれと似たところがあると思う。
はずがない
その偶像崇拝、偶像礼拝をしてはいけないということが申命記にも書かれていている。けれども、そもそも旧約聖書のもともとの言葉であるヘブライ語には、何々してはならないというような禁止命令にあたる言葉がないそうで、してはならないと訳しているところはあるが、するはずがないという風に訳すこともできるそうだ。あなたはいかなる像も造ってはならない、ひれ伏したり仕えたりしてはならない、と訳している所は、あなたはいかなる像も造るはずがない、ひれ伏したり仕えたりするはずがない、とも訳せるそうだ。それをしてはならないと禁止しているというよりも、そんなことをするはずはない、する必要はないということを言おうとしているらしい。
礼拝
つまり、これは人が神とどう向き合うのは、神を礼拝する時どういう風にするのかということを言おうとしていることらしい。
私たちの神は目には見えない。目に見えるような形となって私たちと関わっているのではない。霊である神は、目に見えないけれども私たちといつも直接関わってくれている。霊としていつも見つめてくれている、霊としていつも触れてくれている、霊としていつも私たちと共にいてくれている、霊としていつも私たちに語りかけてくれている。そういう風に目には見えないけれども私たちと直接関わっておられる。だから何かの像を作る必要はないし、像を拝む必要もない。だから申命記では像を造るはずもないし、拝むはずもないと言われているのだ。
なのになんかの像を造ってそれを礼拝することが偶像崇拝ということだ。偶像崇拝とは、もちろん神の形を作って拝むということでもある。しかしそれだけではなく、人間が神を作ってしまうこと、人間が神を管理してしまうこと、人間が神を支配してしまうことということでもあるのではないかと思う。人が神を目に見えるものにしてしまう、そして神がこういうものであると思ってしまうことで、神とはこういうものであると人間が勝手に作ってしまうことである。神に創られた人間が、今度は自分たちが勝手に神を作ってしまう、それこそが偶像崇拝ということなのではないかと思う。
そうすると目に見える像を作る事だけが偶像崇拝ではなくて、目に見えない、自分の心の中に像を作ることも偶像崇拝といえるのではないか。神さまはわたしをお金持ちにしてくれるはずだ、わたしを病気にさせないはずだ、わたしの家族を自分の言うことを聞く素直な人間にしてくれるはずだ、憎らしいあいつをこらしめてくれるはずだ、私たちは神さまのイメージを勝手に作りがちだ。わたしの願いを聞いてくれてこそ神なのだ、神は私の願いをかなえてくれる者なのだ、そんなイメージ、そんな自分勝手な像を私たちも自分の心の中に造ってしまうことがある。それこそが偶像崇拝なのだと思う。神を自分の思いのままに何でもかなえてくれるロボット、まるでドラえもんのように思ってしまうこと、そして自分の思うようにいかないと文句を言い見向きもしなくなる、それこそが偶像崇拝ということなのではないか。他の宗教の儀式に参加しないから偶像崇拝してないなんてことはないのだ。神を自分の思い通りにしようとすることこそが偶像崇拝なのだ。申命記はそのことを全面的に否定している。
私たちは広い海を航海しているようなものではないかと思う。神という大きな船の船底に乗って航海しているような感じかな。船底にいるのでどんな大きさの船かも分からない。大きすぎて分からない。だからときどきこの船で大丈夫かと心配になる。そこで救命胴衣をつけて、この救命胴衣こそ自分を守ってくれる。大きな船の船底で、救命胴衣を握りしめて、これこそが自分たちの救い主だ、と言っている。沈まない船には安心できずに、救命胴衣で初めて安心する。自分の乗っている船を忘れて、その救命胴衣を神とすること、偶像崇拝というのはそういうことなんではないかと思う。
私たちは神の中に生きている。神の大きな手に支えられて生きている。あまりに大きすぎて時々その神の支えが分からなくなってしまうこともある。何かしがみつけるものが欲しくなってしまうこともある。自分の全てを包み込んでくれていることが不安になって、何かにしがみついていないと安心できなくなってしまうこともある。けれどもやっぱり私たちは支えられているのだ。私たちが気が付かないときも、忘れてしまうときも、そして何かにすがりつく元気がないときにも、神が私たちをしっかりと支えてくれているのだ。神の方が私たちをつかんでいてくれている。
神は見えない、全体像も分からない、ドラえもんのように自分の思い通りにはしてくれない。でも全てを支えてくれている。私たちを愛し憐れんでくれている。