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礼拝メッセージより
説教題:「あろうはずがない」 2005年7月10日
聖書:申命記 5章6、7節
出エジプト
イスラエルはかつてエジプトで奴隷として働かされていた。そして悲鳴を上げた。そこで神はモーセを選ぶ、エジプトを脱出させることとした。
神は自分達の民を奴隷から解放させてくれた神だった。しかしエジプトを出て約束の地へと着くまで、イスラエルの民は何度も神の命令に背いた。そしてそのために40年間も荒れ野をさまようことになってしまった。またしばしば外国の神を礼拝することがあった。神がかつてエジプトで奴隷として苦しい思いをしていたことから救ってくれたということがあったのに、その神こそ自分達の神だと信じていたはずなのに、しばしば他の神を拝むようになった。
イスラエルの民はやがて約束の土地を手に入れそこに国を造った。しかしその国もやがて滅ぼされてしまう。後々彼らは考えたらしい。どうしてこんなことになってしまったのかと。自分達は神に選ばれた祝福された民だったはずなのに、指導者たちの多くが外国に捕らわれてしまうことになってしまったのはなぜなのかと。彼らの結論は、自分達が神の命令に従ってこなかったということが根本原因だということだった。自分達をエジプトから救い出してくれたこの神の言葉を聞かずに、他の民族の神々の像を造り、その神々を礼拝するようになってしまっていた、それこそが自分達の国が滅びてしまった原因だったと分かった。自分たちを救い出してくれた神を信じること、この神の言葉をしっかりと聞いていくことがとても大事なことだったと気付いた。
十の言葉
そこで神に従うことの大切さをまとめたのがここにある十戒だ。十戒とは十の戒めという字を書くが、そもそも戒めという意味はないらしい。してはならないと訳している言葉は、しないだろうとかするはずがないという期待の言葉なんだそうだ。だから7節は、あなたには、わたしをおいて他に神があろうはずがない、というような意味らしい。私はあなたたちをエジプトから導きだした神なんだから、まさか他の神についていくなんてことはあるわけない、というような神の期待を表しているらしい。
他には神がないというよりも、自分とのつながりがとても大きいので、そのつながりを捨てて違う神のところへいってしまうなんて事はないだろうということだ。だからこの言葉は、他の神のところへ行くんじゃないぞ、そんなことしたら承知しないぞという脅しではなく、お前達のことをこれほど愛しているのに、大事に思っているのに、大事にしてきたのに、まさかここから出ていってしまうなんてことはないだろうという神の気持ちを表している言葉のようだ。
親子
それはまるで親が子どもに対する気持ちと似ているように思う。愛する子どもが、まさか自分のことを忘れて誰かの子どもになってしまうなんてことはないだろうと思う、そんな親に似た気持ちを神は私たちに対して持っているということだろう。
イエス・キリストの譬えの中に放蕩息子の譬えというのがある。
父親の下で働いている二人の兄弟がいた。兄はずっと父の言いつけ通りに働いていたが、ある時弟は父に財産を分けて貰って家を出てしまう。しかしうまく行かず放蕩に身を持ち崩してぼろぼろになってしまう。行く当てもなく、結局父の家に帰るしかなくなり帰って行く。父になんとか赦してもらって、息子としてではなく雇い人として働かせてもらうしかないという思いで帰って行く息子に対し、父親は大事な息子が帰ってきたと言って大喜びをし宴会まで始める。ところがそれを知った兄は、ろくでもない弟を責めるわけでもなく反対に大歓迎する父親に対して怒ってしまう。文句一つ言わず一所懸命に働いている俺のことより、財産を使い果たしてしまう弟の方が大事なのかと父を問いつめる。父は弟は生き返って帰ってきたようなものだから喜ぶのだと兄を諭す。
聖書の神はそんな父親のような者であるとイエス・キリストは語った。そして私たちはそこの子どものような者であると。私たちにとってその父の家にいること、神の下にいることが本来のあるべき姿なのだ。だからこの神からすればここの家から出て行って他の家に行くなんてことはあろうはずがない、という思いなのだろう。
しかし実際弟が家を出て行ったように私たちもちょっとよその家の方がよさそうに思うこともある。どんなにいい家でもそこにいることが当たり前になると違う刺激が欲しくなることもあるというのも人間の本性かもしれない。
けれども弟が結局は帰ってきたように、私たちもどれほど離れても帰って行くところはこの父の家、神の下なのだ。そして神は、たとえ私たちがぼろぼろになったとしてもきっとそこで私たちを大歓迎して迎えてくれることだろう。本来いるべきところへ帰ってくることを神が一番喜んでくれるということなんだろう。
家
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない、というのは私たちはいるべき家はここにしかないだろう、他にはあるはずがないではないかということなんだろう。これほど愛している、これほど大事に思っている、その私の下を離れて行くところがどこかあるのかい、神はそう言っているのではないか。
私たちはあらゆる宗教を調べて、キリスト教が一番優れていると判断したから教会に来るようになったわけではないだろう。しかしこの神の下にいることが大切なことだと分かったから、自分のいるべき場所、帰るべき場所はここだと分かったから教会にいるのだ。
わたしをおいて他に神があってはならないというのは、よそにいったら承知しないぞというのではなく、他ではなくここがお前が帰るべき場所なのだ、お前がいるべき場所は私のところなのだ、という神の招きの言葉なのだと思う。
私たちはその招きに応えてここにいるのだ。キリスト教が一番優れているからとか、他の神は偽物だからというのではなく、そんなことは本当は私たちには分からないけれども、イエス・キリストに従うことが、イエス・キリストの声を聞いていくことが私たちにとってはとても大事な、嬉しいことだからこうして礼拝しているのだ。