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礼拝メッセージより
説教題:「顔と顔を合わせて」 2005年7月3日
聖書:申命記 5章1-6節
儀式
宗教にはいろんな儀式がある。祭りの時にはこういうふうにしなければいけない、というようなことが細かくあるようだ。そこではあらゆることを決められたようにしないといけない。そして大概その決まりは増えていって、こういうときはこうしなければいけない、というようなことを言い出す人が現れると、次の年からはそれも全部しきたりになって、やがてはそれが伝統となっていく、ような気がする。本当はどうでもいいことまで、こうしなければいけない、という決まり事になってしまう傾向にあるように思う。そうすると本当に大事なことが何なのか分からなくなり、決められたとおりとか今までの通りにすること、伝統に則ってすること、たとえそれが何のためにやっているのかなんてことは問題ではなくなり、分かろうが分かるまいがとにかくその通りにすること自体が大事になってくる。そして形だけは立派になっていったり、きらびやかになっていったりしながら、実は意味が全然分からないということになることがあるようだ。あるいは本当に大事なことが分からなくなって、きれいに豪華になっていくにつれて、本来の道からそれてしまうなんてことにもなりかねない。
滅亡前夜
紀元前7世紀後半、南王国ユダのヨシヤ王は神殿の修復を行ったが、その時に律法の書を発見。その書を聞きヨシヤ王は現状がいかに律法とかけはなれているかを知ってショックを受け改革を行った。今のようなことをしていては神に裁かれ災いが起こると考えた。その時の改革が後にヨシヤの宗教改革といわれる出来事だった。その時に発見された律法がこの申命記だと考えられているらしい。
当時の神殿には主なる神を礼拝するだけではなく、パレスチナの地元の神であったバアルやアシュラという神の像があったり、その神のお祭りの道具なども置いてあったようだ。
モーセの十戒にも偶像を作ってはいけない、と言われているようだが、それが実際にはいろんな像が作られていた。
影響
かつてユダヤ人はモーセに率いられてエジプトを脱出し、今のイスラエルのある地方へと帰ってきた。しかしもちろんその場所は、彼らが帰ってくるために空けてもらっていたわけではない。原住民が住んでいた。彼らの土地を少しずつ奪いながら自分たちのものにしてきた。しかし原住民を皆殺しにしていったわけではなく、奴隷にしたりなどしてその土地で一緒に暮らしてもきた。そして彼らからもいろんなことの影響を受けてきたようだ。そこで彼らの神であるバアルやアシェラをユダヤ人も拝むようなこともあったようだ。
ヨシヤ王はユダヤの国が南北に別れた南側のユダの王であった。北のイスラエルも滅亡する前には同じような状況であった。ホセア書にはその当時の様子が出てくる。それによると、イスラエルでも主にいけにえをささげながら、バアルの神を礼拝する時の儀式も行っていたらしい。神殿娼婦がいたことも書かれている。バアルは豊穣の神で、神殿娼婦も豊作を願う儀式を担っていたらしい。
本来自分の罪を赦してもらうための献げ物をして、主なる神との関係を正しく持つための神殿で、どうして偶像であるバアルの儀式を行うようなことになったのだろうか。しかも彼らは主なる神を捨ててバアルを信じたのではなく、主にいけにえをささげることは続けていたというのだ。本来の献げ物をしながら、おかしな儀式もするようになったというわけだ。
原住民との交流を持つうちに、だんだんとこれも大事、こういうこともしたらいい、献げ物をするだけじゃなくてこんなこともしてもいいんじゃないか、なんてことから、少しずついろんなしきたりが入り込んできたのではないだろうか。あるいはあの人がこうしていたから同じようにしましょう、なんてことからやがてしきたりになったりすることもある。
聞くこと
何が本当に大事なことなのか、そのことがはっきりしなくなってくることからいろんなおかしなことが起こってくるような気がする。何が大事で何のためにやっているのかよく分からないから、とにかくしきたり通り、去年の通り、あの人のやっている通りにするということが結構多いような気がする。
僕もそうだった。今でもそんな気持ちが結構ある。教会で行う結婚式にしても葬儀にしても、とにかく抜かりなくしないといけない、というような気持ちがどうしても強くて、そうすると一から十まで決められている通りにしないといけないような気になってしまう。この時はどうするのか、こういうときにはどうするのか、そんないろんな細かなことがやたらと心配になってくる。決められた通りにしておけばとりあえずは安心ではあるが、本当は何が大事なのか何のためにやっているのか、そんなことは全然わかってない。そんな時は、確かに抜かりはなくても心に響くものがなにもない、なんてことになりがちだ。
礼拝もそうだ。礼拝の時にはこうしなければいけない、というようなことがいっぱいある。いつもこうしているからしないといけないような気になっていることもいっぱいある。司会者はとちってはいけないなんてことはない。献金の時にいったん後までいかないといけないわけではない、と僕は思っているのだが。本当に大事にしないといけないことは何なのか。どうでもいいことは何なのか、それをいつも吟味しないといけない。
だからいつも神に聞いていなければいけない。神に聞いていくことで正しい道に戻ることが出来る。そして礼拝とは何よりもその神の言葉を聞くこと、それが私たちにとっての礼拝だ。礼拝はただの儀式ではない。ただ教会に来て立ったり座ったりして、お勤めがおわって時間になったら帰るというだけの儀式ではない。そこで神の声を聞くこと、神の赦しの言葉を聞くこと、それこそが礼拝だ。
ヨシヤ王は律法の書を発見することで宗教改革を行った。それまでは律法を聞くこともなかったということだ。まともに神の言葉を聞くこともないままに宗教儀式をしていたということだ。そこで彼らはバアルやアシェラの像も拝むするようになっていった。神に聞かないこと、律法を読まないこと、聖書を読まないことが本当の礼拝からそれていった原因だった。
顔と顔を
かつて神は顔と顔を合わせて語られた、と言う。顔と顔を合わせるという神との関係を保つために律法は与えられた。背くものに罰を与えるとか、守れない者を懲らしめるために与えられたわけではない。神との関係を持ち続けるため、神から離れてしまうのではなく顔と顔を合わせる関係を持ち続けるために与えられた律法だった。
私たちにとっては、その神との関係を持ち続けるためにイエスがいる。そのためにイエスは語り、行動した。私たちにとってそのイエスの言葉を聞いていくことが神との関係を持ち続ける方法、むしろイエスの言葉を聞くことで私たちは神と出会っている。どこからともなく神の声が聞こえてくるなんてことはないけれども、イエスの言葉を聞くことが神の声を聞くことであるのだ。イエスはきっと私たちと顔と顔を合わせるように語ってくれている。自分に語りかけてくれている言葉として聞くことが一番言い聞き方なんだろうと思う。