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礼拝メッセージより
説教題:「従順」 2005年6月26日
聖書:フィリピの信徒への手紙 2章6-11節
喜び
フィリピの教会はガラテヤやコリントの教会に比べて問題の少ない教会だった。けれでも全く問題がないというわけではなく、教会の中でも利己心や虚栄心を持つ人たちがいたようだ。1:28では「どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。」3:18では「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」と言われているように、反対者や敵対者というような人たちがいたようだ。自分の名誉となること、自分の名声を高めることのためには一所懸命になるような人がいたようだ。神がほめ称えられるために自分が何かをするのではなく、反対に自分がほめられるために、自分が有名になるために、自分にちやほやしてもらうために神の名を、キリストの名を利用するようなことをしていたんだろう。
そしてそんな人たちがいることが教会の中での不一致の原因だったようだ。神の名の下に、キリストの名の下に集まっているはずの教会で、私のことを大事にしないとは何事か、私を誰と心得る、なんて人がいたら一致できるわけがない。この手紙を書いたパウロは、そのような反対者はキリストの十字架に敵対して歩んでいるのだというのだ。そして教会の人たちに向かっては、反対者たちに脅されてたじろぐことはないと言う。フィリピの教会は、そんな誰よりも自分を誉めて欲しい、神よりも何よりも自分を持ち上げて欲しい、神の名を語りながら自分のことを誉め称えるような、そんな人たちと対決していたようだ。教会は誰をも愛する所である。けれどもキリストの十字架に敵対するものには断固として反対するところである。
一致
パウロはフィリピの教会に対して、そんな反対者たちにしっかりと対抗して一致するようにと語る。「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」幾らかでもキリストによる励ましや愛の慰めや霊による交わりや慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり同じ愛を抱き心を合わせ思いを一つにしなさいというのだ。キリストに愛されている、キリストに生かされている、キリストによって赦されている、聖霊によって慰められている、そして慈しみや憐れみの心、そんな気持ちが幾らかでもあれば一致できるということかもしれない。そしてそうやって一致することはパウロ自身の喜びである、パウロの喜びを満たすことであるというのだ。
一致というのはみんなが同じになること、違いが全くなくなることではないだろう。みんなが同じことを考え、同じように感じて、同じ服を着て同じことをするということではないだろう。そうではなく、キリストの下に集まっていること、キリストの十字架の下に集まっている、キリストの十字架という一つのところにとどまっている、そういう一致なのだと思う。教会がよく身体のそれぞれの部分にたとえられるけれども、いろんな違いを持った者たちがキリストを頭として一つの身体を形づくるように、キリストの下にひとかたまりに集められている、それが一致なのだと思う。だから一致していてもみんな違うのだ。
そんないろんな人が集められている中で、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことをだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と言うのだ。
俺様を大事にするのは当たり前だ、俺はこれまでこんなことをやってきたんだ、お前らより偉いんだ、俺のことを特別に大事にしろ、なんて思っているとしたら聖書にまるで逆らっていることになる。自分は誰よりも劣っている者であるという思いを持って、他の人のことを大事にしなさいというのだ。
キリスト賛歌
確かに人間は、いつも自分の方が優れていると思いたいし、自分の方が優れていると思えれば安心するというようなところがある。だから相手の方が優れていると思って、他人のことを考えるなんて、そんなこと出来るのかという気もする。
しかしそれこそがキリストの歩まれた道である、それこそがキリストの本質なのだとパウロは語る。
6-11節はキリスト賛歌と言われていて当時の讃美歌だったと考えられているそうだ。
キリストは神でありながら、神であるのに自分を無にして僕となり、奴隷となり、人間となった。そして死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順だった。
人は上昇志向があるあらしくて、上へ上へのぼろうとする。名をあげて有名になって、みんなから誉められて自慢したいという気持ちがある。上に立ってみんなを見下ろしたいという気持ちがある。俺はすごいんだ、どうだ見たか、という気持ちがある。そしてそうならないとどうして自分を大事にしないのかと言って怒り出したり、不機嫌になったりする。
しかしキリストは反対に下へ下へと向かっていった。神ならば一番高いところにいればいいようなものだが、そして見下ろしていればいいようなものだが、神でありながら一番低いところ、死に至るまで、十字架の死に至るまで下へ向かって進んでいった。だから神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名を与えた。
聖書は繰り返し、自分を低くするものだけが高くされると語る。このキリストにならうこと、それが私たちの生き方であるとパウロは語る。自分が優れた者となるため、自分が有名になるために周りを利用するのではなく、反対に周りのために自分を差し出すこと、自分を献げること、それがキリストが私たちに示された道なのだ。
愛
そうまでしてイエスが私たちを愛してくれたから、自分の命まで献げて、私たちのところまでやってきてくれたから、私たちはイエスをキリスト、救い主、主と告白するのだ。
バークレーという人の注解書にこんなことが書いてあった。
『それでは、礼拝はどこから生まれるものであろうか、注意深く目を留めてみよう。礼拝は、「愛から生ずる」。
イエスが人々の心を勝ちとられたのは、権力を振り回してではなく、人々の心を感動させずにおかない愛と、自己犠牲と献身を示されたことによる。イエスは人々の面前でご自身の栄光を捨てられ、その人々を十字架の死に至るまで愛された。その愛によって人々の心が和解し、その反抗が打ち砕かれるのである。人々がイエス・キリストを礼拝するのは、服従させられたからではなく、すばらしい愛を知ったからである。わたしたちは、「これほどの権力には反抗できない」というのではなく、「こんなにすばらしい神の愛が、わたしの人生と魂と全存在とを支配しておられる」といい表すのである。
わたしたちは、「戦いに敗北した」とはいわずに、「奇跡と愛と賛美のとりこになった」という。人間を、降伏した敗北者に変えるのはキリストの権力ではない。人々を、キリストのみ前にひざまずかせるのは、すばらしいキリストの愛である。礼拝は恐怖から生まれるのではなく、愛に根ざしている。』
私たちは神に脅かされたから神を信じているのではない。信じないと地獄に落としてやる、と言われたから信じているのではない。神に愛されていることを知ったから信じているのだ。イエスが汚れた人間の形となって、罪人である私たちのところまで降りてきてくれたから、そんなに愛してくれているから、だから信じているのだ。
どこかの国で、中学生くらいだったかな、ある男の子が白血病か何かになって、治療のために髪の毛が全部抜けてしまったことがあったというのを昔テレビで見た。中学生で髪の毛が全部抜けるというのはかなりショックなことだと思う。それでその子のクラスメートは病気の子を励まそうと考えた。同じようなことが起こったらどうしますか。日本で同じようになったらクラスメートはどうするのだろう。そこのクラスメートの男の子がみんな髪を切ってつるつるにしたと言っていた。
従順
イエスは同じようにしたのではないか。私たち罪にまみれた弱い人間のために、自分も罪人と同じ姿になってくれた。そして十字架の死に至まで従順だった。そこまで神に従順だった。神が人間を愛する思い、人間を救おうとする思いに徹底的に従順だった。
イエスは神に従順だった、しかしこの従順とは人間誰にでもへこへこすることではなかった。神殿から商人を追い出したり、ファリサイ派に厳しいことを言ったり、間違いに対しては徹底的に対決した。
神に従順であることと、周りの人間全部に従順であることとは違う。周りに者みんなにいい顔をすることは周りの人間に従順ではあっても、神に従順とは限らない。いじめがあったときに、いじめられている者にも、いじめた者にもいい顔をしていては何の助けにもならない。神に従順であろうとすることは、神の意志に忠実であろうとすること、間違っている人間に対しては間違いだと言うことだ。本当はそうすることこそが相手のためでもある。人間に従順になるのではなく、神に従順になることが大事だ。
イエスは神に従順であったが、いろんなものと戦った。それは私たちを縛り付けるものから私たちを解放するための戦いでもあった。神に従順に従うと言うことは、どこかで戦うことでもあるのだろう。しかしそれはそこで誰かを解放するための戦いでもあるのだろう。本当は戦う相手を解放するための戦いということかもしれない。
イエスは神の身分でありながらそれに固執しなかった。それはそれほどに私たちを愛しているからだ。何もかも捨てて私たちのところに来てくれた。それほどに私たちを愛しているからだ。私たちを何とかして助けよう、どこまでもずっと一緒にいて私たちを支えようとしているからだ。私たちはそんなイエスに従順についていこう。