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礼拝メッセージより
説教題:「滅びない言葉」 2005年6月5日
聖書:マルコによる福音書 13章24-27節
時々思い出したように、終末のこと、世の終わりのことが話題になることがある。世の終わりがいつくるのか、何年何月何日なのか、残念ながら聖書には書いていない。何月何日が終わりだといって大騒ぎしている人がいる、ということがニュースになるが、どれもみんな間違っている。今までのところは。そういうときは、たいがい、もうすぐ終わりなんだから、これとこれとをしなければどうかなる、といったたぐいの話がよくついて回る。今のうちによいことをしておかなければということで、献金をするように、とかお金を集めるとか言う話になることが多いように思う。終わりがくるといって恐怖心をあおっておけばお金を集めるのには都合がいいのかもしれない。
しかし、その日がわかるのがいいのかどうか、よくわからない。お客さんがいつ来るかがわかっていれば、普段散らかっている家でも片づけておくこともできる。そういう点ではわかった方がいいような気もする。死刑囚が残りの命を猛烈なスピードで生きるが、終身刑の者は宛もなく目的もなくだらだらと生きる、ということを聞いたことがある。また最近では、不治の病にかかった患者にも病気のことを知らせることがあるそうだが、後数ヶ月の命だということがわかれば死ぬ準備をすることもできるような気もする。では、終末がいつだ、とわかればどんな準備をするのだろうか。
明日終末になるとしたら、明日で世界が終わるとしたらどうするのか。なにをするだろうか。あと24時間をどう過ごすか。うまいものをいっぱい食べるか。やり残したことをしておくか。なにをすべきかを考えるだけで24時間が終わってしまいそうな気もする。
本当に明日で世界が終わるかもしれない。でも私たちが生きている間は終わらないかもしれない。イエスの時代からもう2千年もたっているが終わりはきていない。本当にくるのか、本当に世の終わりなんてのはあるのだろうかとも思えるほど。
しかしイエスは終わりが来ると言った。聖書書いてあるような天変地異が起こる、そして終わりがくると言った。どんなことになるのか、大変な大騒ぎになるのではないか、大変な苦難があるのかもしれない、それがどんな苦難なのかもわからない。しかしそれは終わりが近づいている時でもあるという。苦難はやがてくる栄光への入り口でもあるというのだ。イエスがやがてまたこられる前触れでもあるというのだ。
では終わりの時が近づいている今、どのように生きればいいのだろうか。イエスはなにをしろと言っているのか。ここでは「目を覚ましていなさい」とだけ言われている。世の終わりが近づいている、それに際して「目を覚ましていなさい」とだけ。特別に何かを始めよ、とも何かをやめろとも言われない。ただ目をさましていなさい、だ。
いつかわからないのを待ち続けることはつらいことだ。いつ試験があるかわからない学生のようなものかもしれない。いつもそのための準備をしていなければいけない、というのは結構大変なことだ。昨日はなかった、今日もなかった、といつもびくびくとしていなければいけないとしたら大変。もし終末が試験のようにいやな、つらいだけのものだとすれば、それがいつかわからないということは大変なことだ。
終末が楽しみだとしても待ち続けることは大変だ。小学生の頃、大阪で万博があった。その時どこの誰の家かは分からないが、泊めてもらったところの家におもちゃの小さなルーレットがあって、それを僕はえらく気に入ってしまった。それでそのおじさんは、後でそれを送ってやると言った、と僕は記憶しているのだが、今となっては定かではない。とにかくそのルーレットが届くものと思っていた僕は、毎日毎日郵便が来るのを待ち続けた。どれくらい待っただろうか。今日もこなかった。今日もこなかった。が続いて。だんだん待ちくたびれてしまった。そしてそれはいまだに届かない。期待する気持ちを持ち続けることもまた大変なエネルギーを必要とする。それが長期間になると疲れ果ててしまう。終末が楽しみだとしても、まだかまだかと待っていては疲れ果ててしまうかもしれない。
で、実際終末とは苦しみなのか、楽しみなのか、ということになるが、ここでイエスはイチジクの話をしている。枝が柔らかくなり、葉が伸びると夏が近づいたことがわかる、という。夏のいうのはイチジクの収穫の季節だそうだ。つまり終末は収穫の時にたとえられている。収穫ということは喜びの時ということだろう。だから喜びの時がもうすぐ近づいているということだ。そのとき、天地は滅びるという、天地が滅びれば私たちはどこで生きていけばいいのか、と思う。しかしイエスの言葉は滅びない。つまり私たちはイエスの言葉の中で生きていけばいい、ということだ。滅びないものにすがって生きていかねばならない。
ではイエスの言葉にすがって生きていくということはどういう生き方なのか。明日で世界が終わるとしたらどう生きていくのだろうか。
宗教改革で有名なルター。宗教改革というのも傲慢な言い方だ。キリスト教改革ではないのか。この人はこういった。「明日で世界が終わるとしても、わたしはリンゴの苗木を植え続ける」。明日で世界が終わるとしても、わたしは淡々といつもの生活をする、とルターは言う。
人生は一日一日の積み重ねである。今日が最後の一日だとしたら、私たちはその一日を大事に生きようとするかもしれない。しかし、今日も、最後の一日も同じ一日であるはずなのだ。今日を大事にしなければ最後の一日も大事にはできないように思う。そして今日一日、目を覚ましていなさい、とイエスは言われる。今日も明日も、そして最後の日も、目を覚ましていなさい、と言われる。目を覚ましていると言うことはどういうことなのか、たぶんそれはいつかいつかと緊張してびくびくしているということではないだろうと思う。あるいは早く来い、早く来いと焦って待っているということではないだろうと思う。
終末になったときにどうなってしまうかわからない、いざとなればなにに頼ればいいのかわからないとすれば、びくびくしなければいけないだろう。心配で夜も眠れなくなるかもしれない。しかしその時頼るべき方を知っているならば、心配ばかりする必要はない。頼りになるものがないのならば、どうなることやら心配だが、決して滅びないもの、頼りになるものがあるならば大丈夫だ。
だから終末に向かって、私たちは淡々といつ通り生きていく。いつ来てもいい、ずっと先でもいい、それがイエスの言葉を持っている者の生き方なのだろうと思う。終わりの時に雲にのってやってくる方、全てを支配する方を私たちは信じている。その方の滅びない言葉を私たちはもらっているのだ。そのイエスの言葉をしっかりと聞いて生きていこう。