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礼拝メッセージより
説教題:「叫び」 2005年6月12日
聖書:マルコによる福音書 15章33-41節
十字架
処刑場にやってきた囚人たちは十字架に堅く縛られるか、あるいは手首を釘で打ちつけられたそうだ。そして囚人たちは十字架上で力尽きて死ぬまで苦しみ続ける。十字架刑は当時もっとも屈辱的な刑で、普通1日か、2日間苦しんでから死んだそうだ。死んだあとの死体も普通は野ざらしにされ、鳥やけものの餌にされていたらしい。
イエスは朝の9時に十字架につけられた。そして十字架につけられてからも、道行く人や祭司長、律法学者たちにあざけられた。「十字架から降りて来い、そうしたら信じてやろう」という風に。またイエスと共に十字架につけられた囚人からも罵られた。
昼3時に息をひきとるまで6時間、十字架の上にいた。どんな痛みだったのか、どんな苦しみだったのか、想像もできない。
そしてこの時、イエスの12弟子たちはもうそこにはいなかった。マルコ14章を見ると、イエスの弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げ出してしまっている。後でこっそり追ってきたペテロも、まわりの者から問い詰められ、3度イエスを知らないと言う。一緒に行動をともにし、一緒に生活をしてきた12弟子はもうすでにいない。そこには遠くから見守っている女たちがいるだけだ。
イエスの最後の言葉は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」つまり、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」であったと記されている。人々に完全に見捨てられ、そして神からも見捨てられた、その様な状況にイエスは立たされたのだ。
神の子なら、どうして絶望して死んでいかねばならないのか。そもそもキリストがどうして殺されてしまったのか。本当にそんな人がキリストなのか。キリストならもっとましな死に方があるのではないか。神に完全に信頼して、苦痛を耐え忍んで、讃美歌でも歌いながら死ぬべきではないか。神の子ならどうにかしたらどうなのか。そのままじっとして、弱いままで死ぬことはないではないか。そんな気がする。この時、この光景を見ていた者の中にも、同じように考えている人がいた。31節を見ると、「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と言った人がいたと聖書は語っている。この人たちは海綿に酸い葡萄酒を含ませて飲ませようとした。この葡萄酒は気付け薬だそうだ。イエスをすぐには死なせないようにして、エリヤが来るかどうかみてみようというようなことらしい。
とにかくそうやってイエスに飲ませようとしたがイエスは死んでしまった。彼らは、イエスを馬鹿にしてこんなことを言ったのだが、馬鹿にする訳ではなくても、同じような思いになってしまう。
神の子
こういうときこそ、奇跡をおこして、十字架からスーパーマンのように下りてくる、それこそがキリストである。私たちもそんな風にしばしば思う。
イエスは様々な奇蹟を行ってきた。だからこの時イエスが奇跡を起こすことができなかったので、奇跡を起こさなかったのではないのだろうと思う。きっとその気になれば,十字架から下りてくることも可能だったのではないか、と思う。しかしイエスは敢えてそれをしなかったのではないか。
神とはいったい何なのか、神とはどういうものなのか。いろいろなイメージ、人それぞれに持っているだろう。すごい奇跡をおこす方。光輝く姿で悪者を懲らしめ世の中の不正を正していく、そしていつもどこか高いところから、私たちを見ている、それが神のあるべき姿、だれもがそんな神のイメージを持っているのではないか。でも誰もが持っているイメージにはとても似つかわしくない姿がここにある。私たちの期待に答えるような姿は十字架の上にはない。
イエスは絶望の声を上げて息を引き取った。まさに敗北の死の有様といった感じがする。そんな死に方をする者をだれがキリストだと思うのか、だれが神の子だと思うだろうか。だれが信じることができるでだろうか。あの言葉は絶叫ではない、あれが絶叫だなんて思いたくない、という気持ちもある。何か深い意味のある言葉に違いない、と思いたい気持ちになる。十字架の姿だって、単なる仮の姿でしかないに違いないと思いたくなる。本当の神の姿はこんなんではないのだ、と思いたくなる。
ところがこのイエスの姿を見て、この人こそ神の子だという人がいた。39節『百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。』百人隊長とは100人の兵隊の長で、百卒長と訳している聖書もある。
この人は大声を出して絶叫して死んでいったイエスを見て、この人は神の子だったと言った。ところがこの人はイエスにいばらの冠をかぶらせ、つばきをかけ、十字架につけた兵士たちのうちのひとりである。この隊長がイエスを見て、「まことにこの人は神の子であった」と告白している。孤独に苦しみ、痛みに苦しみ、絶叫して死んでいったイエスを目の当たりにして神の子だ、と告白している。彼にはイエスが神の子であることがわかった。
そこには私たちがしばしば思い描く神々しい神のしるしといったものは何もない。しかし、百人隊長はそんないわゆる神々しい、しるしを見たからではなく、絶叫して死んでいった有り様を見て、イエスが神であることを知った。どうしてそんなことがわかったのか、それは分からない。それを感じ取ったと言ったほうがいいのかもしれない。
38節『すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。』と書かれている。神殿の奥の聖なる場所には大祭司が年に一度しか入れなかったそうで、その聖なる場所を仕切る幕がこのとき二つに裂けたという。
これはとても象徴的な出来事だ。聖なるものと俗なるものを分けていたものがこの時になくなったということだ。聖なる場所が神のいる場所、一方俗なる場所は人間のいる場所で神はいない場所として分けられていた。しかし聖なる神は俗なる人間のもとへ来られた。神を見失い、絶望し、絶叫する、そんな所へ神の方から来られた。ここに神殿の垂れ幕が裂けたことがかかれているということはそういうことを意味しているのだろう、と思う
どん底
神はイエスにおいて、私たちと出会ってくださった。イエスにおいて私たちと面と向かい合ってくださった。同じ所まで来てくださった。同じ高さに立ってくださった。そして苦しみをも味わってくださった。私たちと同じ苦しみを、それ以上の十字架の苦しみを味わってくださった。人に捨てられ、神にも捨てられ、完全に孤独な状況に立ってくださった。最後まで弱い人間として、私たちと同じ弱い者として、苦しみを忍んでくださった。最後まで私たちと同じ所にいてくださった。絶叫するしかないような所まで、きてくれた。
苦しみにあい、全く望みもない、すべての者に捨てられ、失敗し、落ち込み、神などいないと叫ぶとき、しかしそこにもイエスはいてくださる。そこにも神の手はすでにそこまで伸ばされている。そして私たちも「神よどうして私を見捨てるのですか」と祈ることも出来るのだ。いや人生のどん底では、神よどうして私を見捨てたのか、としか言いようがないのだろう。しかしイエスはそれさえも聞いてくれる、そんな時にも共にいてくれる、それこそが救いなのではないか。
ある禅の学者の話を本で読んだ。その先生は禅の大家だそうで、いろんな問題を持った人から相談を受けるそうだ。いろんな人が禅で解決してほしいと思って来る。その先生は耳が遠いので、相談に来た人の口許に耳を寄せて、額にしわを寄せながら悲しそうにその人の話を聞く。そしてその先生は、困ったな、困ったな、と言われる。そしてどうしたらいいでしょうか、と聞かれると、先生はまた困ったな、困ったなと言われるそうだ。そうやって相談者と一緒になって困ることが、その困った人から困ったものを追い出す力になったのではないか、とその本には書いてあった。
アルツハイマーになった元牧師の夫と共に暮らしている人の話しを読んだ。これから第2の人生をと思っていた時に夫が病気になった。どうしてこんなことになるのか、これまで一生懸命に神様のために働いてきたのに、という気持ちがあったようだ。そしてその人はこの十字架上でのイエスの叫び、「神よ、どうして私を見捨てたのか」というこの言葉にすがりついてきた、と書いていた。
イエスは十字架で絶叫した。それは私たちの絶叫と同じ絶叫だったのではないか。不条理な世の中でもがき苦しみ打ちのめされた絶叫ではなかったのか。そんな絶叫する私たちのすぐそばにイエスはおられる。イエスは私たちの願通りに奇跡を起こすよりも、共に居ようとされたのだと思う。イエスはどんな時にも見捨てたりしない。人が皆見捨てても、神などいないと言ったときでも見捨てない。私たちがどうしてこんなことに、どうしてこんなことが、という時に、イエスは私たちと共にいる。一緒に苦しんでくれる、一緒に悲しんで暮れる、一緒に悩んでくれる、そういう仕方でイエスは私たちのそばにいる。イエスはどこまでも共にいてくれる。