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礼拝メッセージより
説教題:「仕えること」 2005年5月29日
聖書:マルコによる福音書 10章35-45節
予告
すぐ前の32節からのところでは、イエスが三度目の死と復活を予告している。
エルサレムに上る途上。旅の終わりが近づいてきた。しかしそれは苦難への道。しかしイエスは先頭に立って歩く。弟子達は驚き、恐れたとある。何に驚き恐れたのか。イエスの緊迫感に、殺気だった様子に、異様な雰囲気に恐れたのだろうか。ついにエルサレムに近づきイエスも大変な覚悟だったのだろう。そこで再び自分が殺され、三日の後に復活することを伝える。
これが三度目の受難予告。
一回目は8章31節、このときはペテロがイエスをいさめた。
二回目は9章31節、このときはすぐ後でだれが一番偉いかと論じあった。
弟子たちにとってはイエスが何をいっているのか、理解できなかったらしい。何かたわごとでも言っていると思っていたのかもしれない。「そんなご冗談を、そんなことを言うのはやめて下さいよ」といった気持ちだったのかも。
そして今回が三回目。
今回はすぐ後でヤコブとヨハネがイエスに栄光を受けるときに両側にいさせてくれるようにと願う。
彼らは異様な雰囲気と緊迫感から一体これから何が起ころうとしているのだろうか、自分達はどうなってしまうのかと今後のことが心配で心配でたまらなくなったのかもしれない。
「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせて下さい。」これに対しイエスには「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」なんて言われる。その後に「この私が飲む杯を飲み、この私が受けるバプテスマを受けることができるか」と聞かれた時にも止せばいいのに「できます」なんて答える。イエスが杯と言ったときには殉教することを意味していたようだが、彼らに分かっていたのだろうか。実感もないままに勢いで出来ると答えたような気がする。イエスは彼らをたしなめるようにそれは定められた人々に許されれることだ、と言った。
これを聞いてほかの弟子たちは腹を立てた。要するにみんな同じようなことを考えていたようだ。出し抜かれたので怒りだしたようだ。それをみたイエスは弟子たちを呼び寄せて話した。42〜45。
不安
弟子たちは不信仰だったのか。確かにそう言えなくもない。しかし弟子たちだけが特別不信仰でだめな人間の集まりだったからこういうことになったわけではないだろう。彼らはいろいろな物を捨ててイエスに従った。親をおいて、仕事を捨て、財産を捨てて従った人たちだった。この人についていけばすべて大丈夫、と思ってついていったのだろう。やがて権力を握ってこの社会を変えることができるのではないかと期待していたのかもしれない。
ところがイエスは、自分は捕まって死刑にされるだろうと言い出す。残される自分たちはどうなるのか、ということを彼らは考えたに違いない。イエスが、自分が殺されると言ったときの弟子たちの反応はそういうところからきているのかもしれない。おいおい、ちょっと待ってくれよ、いろんなものを捨ててついてきているのに、死んでもらっちゃ困る、という気持ちなのだろう。しかし仮にイエスの言う通りになったとしても、イエスがよみがえると言っているから、そのときにはすぐそばに置いてもらおう。その約束をしといてもらおう。そう思っても不思議ではない。
イエスが言っていることはどういう事なのかよく分からないけれども、兎に角最後の最後にはいい思いをしたい、高い地位を約束してもらいたい、そうすればそれまで少々大変なことがあっても我慢も出来る。そんな気持ちがあったのではないか。きっと誰もがそういう風に思うだろう。
だから弟子たちにとってはイエスの死の予告はそうとうにショックなことだったに違いない。だからといって、そんな弱気な人にはもうついていけません、やめますというには深入りしすぎていた。もう容易に後戻りできないところまで弟子たちはきていた。不安になった弟子たちは将来の地位を約束してもらうことで安心しようとしたのではないか。しかも御国で栄光を受けるときに、その両側に座らせて下さい、なんて都合のいいことを約束してもらいたかった。イエスはこれから死刑にされる、と言っているのに、彼らの関心はイエスの迎えようとしている苦難よりも、全てが終わって栄光を受けるという輝かしい時、その時の自分たちのいわば分け前にあった。イエスが全世界を支配するときには、その両側にいさせてくれ、と。イエスが死刑にされるときにはどこにいるつもりだったのだろうか。
偉く
弟子たちはみな偉くなること、人の上に立つこと、というか人よりもいい位置にいることを望んでいたようだ。弟子たちはイエスに従っていた。従いながらも、人よりも偉くなりたかっただろう。そのためにも自分の師匠が偉くなることがまずは大事だった。権力をもってみんなを支配するようになってもらえば、自分はその人の弟子なのだということで自分も何がしかの力を持ち威張ることもできる、と思ったのだろう。あるいは力はなくても、あの人は立派な人だと言う世間の賞賛を浴びるような者になってくれれば、私はあの人の弟子なんですと鼻高々でいられる。
私たちは多かれ少なかれ、誰でもそんな気持ちを持っているのだろうと思う。先生、先生なんて言われるとついつい偉くなったような気になってしまう。そう言われてみんなからちやほやされたい、と思う。自分がみんなからどう評価されているかなんてことばかり気にしている。先生、先生とおだてられて喜ぶような人間にはわがままなのが多い。
仕える
ところがイエスはとんでもないことを言う。偉くなりたいものは支配者ではなく仕えるものになれ、というのだ。
人は自分のために生きている。自分がよければ、というところで生きている。何でも自分のしたいようにしたい、思い通りにしたい、という気持ちを持っている。そのために一番いい方法は支配者になること。そうすることが自分の好き勝手にする一番の方法だ。自分の思い通りにするために大声を出したり、脅かしたり、恩を売っておいて逆らえないようにしておいたりして、自分の思い通りにさせる。そんな独裁者になれればなんでも自分のしたいことができるだろう。何でも自分の思い通りになったらどんなにいいだろうかという気持ちは確かにある。
しかしイエスは仕える者になれと言った。仕える者になるということは、人のために生きるということだ。人を生かすために生きるということだ。イエスは、「おまえのことは俺が引き受けた。全部引き受けた、だからおまえは他の人のために生きなさい」あるいは「私がおまえのために生きた、だからおまえは他の人のために生きなさい」そう言っているのかもしれない。
自分のために生きるということは、自分で自分のことを心配しないと、誰も心配してくれる人はいない、と思っているからではないか。誰も自分のことを心配してくれるものがいないから、自分が一所懸命自分のことを心配するのではないか。自分で自分を守らないと誰も守ってくれないから自分のことにしか目が向かないということになのではないか。
しかしイエスは「私があなたのことを心配している、私はあなたのことを大事に思っている、私があなたを見ている。だからあなたは他の人のことを見なさい、他の人のことを心配しなさい」そう言っているのではないだろうか。
大事
イエスは、おまえは私にとって大事な存在なのだ。そのままでありのままで大事なのだ。誰かに勝たなくても誰かより立派でなくてももうすでに大事なのだ。だから周りに勝たないと、あるいは周りからちやほやされないと価値がないわけではないのだ。私にとってはあなたはかけがえのない大事なひとりなのだ。だから隣人を自分に従わせる相手としてではなく、仕える相手としてみなさい。私があなたを大事にしているから、あなたは隣人を大事にしなさい。私があなたに仕えているから、あなたは隣人に仕えなさい。そう言っているのではないか。