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礼拝メッセージより
説教題:「大切なこと」 2005年5月22日
聖書:マルコによる福音書 2章23節-3章6節
ネクタイ
先日、今年から国会の冷房の温度をあまり下げないようにするとかいうことをテレビで言っていた。それで委員会の時だけでもネクタイでなくてもいいということを決めようと話しがあった。本会議の時はやはりスーツにネクタイでないと権威が保てないないなんて話しもあったが。やっぱりスーツにネクタイは権威を保つためなんだ、なんて思った。ネクタイは資本主義の征服だ、とある牧師が言っていたがそんな気もする。
しかしネクタイをしなくてもいい、という決まりがないとネクタイをはずせないというのはいかがなものか。スーツにネクタイも自分が好きで着ているとか、自分がそれがいいと判断して自分で選んでそれを着ているのではなくて、何となく決まり切った服装だからそれを着ているんらしい。だから止めるにしてもその決まりを作ってもらわないとやめられないみたい。
安息日
23節「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれる」たときに起こった出来事。
さて安息日とは創世記2章にあるように、神が天地を作ったときに7日目に休んだということに由来する。そしてモーセの十戒には、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日のあいだ働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」と出エジプト記20章に書いてある。
また出エジプト記の34:21にも、「あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。耕作のときにも、収穫のときにも、仕事をやめねばならない」と書いてある。さらに35:2には「六日の間は仕事をすることができるが、第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる」とまで書いている。
こういう風に、安息日には休まにゃならんという決まりがあった。そういう律法があった。安息日には労働をしてはいけなかった。では何が労働に当たるのか、ということが問題になってくる。そこで律法の学者はこの安息日の律法を具体的に日常生活にあてはめるために39の規則を作り、さらにそのひとつひとつを6つの細則に分けていたそうだ。ということは全部で234の細則ということになる。
ハンカチを持って歩くのが労働になり、腕にまくのが労働ではない、というようなことを真面目に議論していたらしい。ちなみに今では、エレベーターのボタンを押すのは労働に入っているそうで、安息日にはエレベーターは自動的に全部の階に止まるようになっているそうだ。
律法破り
安息日に種まきや耕作、取り入れをするなんてことは当然絶対駄目、だった。しかし、イエスの弟子たちは安息日に麦の穂を摘みはじめた。
これをファリサイ派の人々が見逃さなかった。「なんであんたの弟子は安息日にしてはいかんことをするのか」と質問する、と言うよりも詰め寄っている。当時は鎌を使わなければ他人の畑の麦を取ってもよかったそうだが、それを安息日にしたことが問題だった。安息日に労働をするものは死刑だ、という意識があったのだろう。出エジプト記に書いてあるように。
これに対してイエスは、「ダビデが、自分の供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」と答えた。このことはサムエル記上の21:1-6に書いてある。本当はアビアタルではなく、アヒメレク。イエスが間違ったのか、マルコが間違ったのか。
しばり
ファイサイ派から見れば、イエスも弟子たちも安息日の律法を破る常習犯であった。しかしイエスは律法なんてものはまるで駄目な無用なものだと考えていたわけではなかった。しかし、イエスの律法理解とファリサイ派の律法理解とは随分と違いがあったようだ。
ファリサイ派にとって、安息日は喜ばしい日ではなかったようだ。ただ何もしない、何もしてはいけない日だった。これはいいか、あれはいいか、許されるか、律法違反ではないか、そんなことを一生懸命に考えて、いつもびくびくしている、そんなかなりしんどい一日だったらしい。
ファリサイ派は自分たちがそうやって異常なほどに神経質になっているだけではなく、同じことを回りの者にも押しつけていた。俺たちはこれほどやっているんだ、という誇りと、お前たちは何をやっているんだ、ちゃんとせんか、やっぱりお前たちは駄目だ、という人を裁く気持ちを持つようになる。人を裁き人の駄目さを指摘することで自分の正しさを証明していたと言ったほうがいいのかもしれない。でもそれは当然の成り行きだ。はじめに律法ありき、はじめに安息日ありき、そういう気持ちを持っていたようだ。
彼らだって自分たちの良心に従って、ユダヤ教という宗教を守っていた。そうすることが、律法を必死に守ることが神に対する忠誠のあらわれであると考えていた。実際、その忠誠心は大したもの、その熱心さはちょっとやそっとじゃ真似できないようなものだった。そしてその忠誠心がユダヤ教を支えてもいた。
彼らはユダヤ教を守っていた。律法を守る集団はずっと生き延びていた。それを必死に守っていた。しかし、そのことで彼らは人間のいのちに無関心になっても平気であった。人間のいのちよりも律法を重んじた。律法に関しては事細かにいろいろなことを知っていたようだ。でも自分のそばにいる隣人のことはあまり見えていないようだ。隣人の苦しみも悲しみも見えなくなってしまったようだ。人間の姿かたちは見えていても、実は人間そのものは見えてはいなかったのではないか。
人のため
イエスは言った、「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」。
コートが小さくなったからといって自分の身体を削るなんてことはしない。靴が小さいからといって、自分の足を削る人はいない。でも同じようなことをしていることが実際にはある。学校に校則というものがある。全く意味の分からない校則があっても、それに従うことを要求されたりしている。廊下は90度に曲がるとかいうやつ。それから制服を着るようにとかいうのがある。校則に自分を合わせていかないといけない。自分の身を削ってもだ。ちと言い過ぎか。必要に応じて校則を変えていくなんて発想はあまりないらしい。
学校だけではなく、社会にも人間を縛るいろいろな決まりとか慣習とかがある。自分がしたいからではなく、そういうしきたりだからしなければいけないから仕方なくする、ということがいっぱいある。
教会にもいろいろあるだろうか。礼拝にどんなものを着てこなければとか、どんな顔で礼拝しなさいとか、物音ひとつたてるなとか、弱音を吐くなとか教会でもそうしていないといけないと思うようなことがいろいろある。自分が勝手にそう思っているのかもしれないが。
礼拝を守るなんて言い方があるが、言い方は兎に角、礼拝に出ないといけないという決まりを守ったなんて気持ちがあるならそれは違うだろうと思う。最近牧師を引退したばかりに人が、毎週説教の準備をしなくていいのはいいよーと言っていた。その人は用事もあっていろんな教会の礼拝に行っていると楽しそうに話していた。礼拝を守るのは説教する牧師だけで十分。もっと楽しんで礼拝すればいい。
教会こそ、自由なところであるはずだ。見かけではなくて、人そのものを大事にするところであるはずだ。イエスはそう語ってきた。イエスは私たちを教会人という枠に閉じこめるためにここに招いているのではない。イエスはそのままの私たちを招き、そのままの私たちを愛してくれているのだ。充分に愛されることで初めて私たちは変わることができる。
ぼくはもともと左利きだったらしい。祖母は左で包丁をもっていた。でも無理やり右に持つようにさせられたらしい。多分そのせいでひねくれていると思っているのだが。本当のひねくれの原因は定かではない。ぼくは教会に行きはじめたころ、左手で箸を持つようになっていた。これがかなりうまくいっていた。ところがその当時どこに行っても右手で食べろ、おかしい、なんで左手なんかで食べるのか、と言われた。それでも左手で食べていた。ところが教会だけはそんなことは言わなかった。浅海君左利きなの?とは聞かれたけど。でもそのころそれを認めてくれたのは本当に教会だけだった。あの時、どうして右手で箸も持たないのかと言われていたら違う人生を歩んでいたかもしれないと思う。
律法も本来は人間を生かすためのものだった。それを人間を裁くため、縛るためのものにしてしまっていたからこそイエスは怒った。律法の本来の意味を取り戻すためにイエスは律法学者やファリサイ派とぶつかった。
イエスの言葉も私たちを生かすためのものだ。人を裁くためでも縛るためでもない。こうしなさい、それをしなさいという風に言われていることもある。しかしそれは、お前はそれもできてない、これもできてないじゃないかと言って私たちを責めているのではないと思う。これをしなさいというのは、私たちが生きるため、私たちが生き生きと生きるために私たちを招いてくれている言葉なんだと思う。
イエスは愛しなさいと繰り返し語った。それが一番大事だと言った。愛することが大事なのだ。自分がどれほどできるか、どれほど立派になったか、どれほど礼拝を休まないかよりも、隣人のことを大事にすることが大切なのだ。そのためにも自分自身が神に愛されていることを知ることが大切だ。だから礼拝は大切なのだ。
暑いからネクタイはずしたいけどなんて言われるだろうかなんて心配したり、俺も我慢しているのに何であいつははずしているんだ、辛抱するのが立派な教会人だ、なんて思ったりすることが多い。あんたたちも同じようなことをしているじゃないのかと言われているのではないか。あなたは何を大切にしているのか、それは本当に大切なものなのかと聞かれているのではないか。