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礼拝メッセージより
説教題:「法外な恵み」 2005年4月17日
聖書:マタイによる福音書 20章1-16節
報酬
普通働いた報酬ってのは、働いた分に応じてということが考えられている。働いた量か、あるいは働いた時間に換算されることがほとんどだ。1日8時間位働くというのが基本的な仕事、のように思っている。それ以上の時間だといっぱい仕事したと思い、少ないとあまり仕事をしなかったような、そんな気になることがある。
けれども必ずしも働いた時間と報酬とが関係するとは限らない。1年に何億も稼ぐ人もいるが、その人がサラリーマンの何十倍も何百倍もの量の働きをしているかというと、そうわけではない。
普通の仕事でも、同じ時間働いても仕事によって報酬も違ってくる。そうすると、報酬ってのは、必ずしも仕事の量、それに費やした時間に相当する、というわけではないということになる。今お金持ちの人もあまり持ってない人もいる。お金をいっぱい稼ぐ人もいるし、そうでない人もいる。でもそれらも結構たまたまそうなっている、たまたまお金がいっぱい手に入る立場に自分が立っているという面が強いのかもしれない、と思う。
でも日本人は、この金は俺が稼いだんだ、という気持ちが強いなんてことも聞いたことがある。だから、自分が稼いだんだから自分の勝手にする、金持ちになったのも自分が努力したからそうなったんで、これは全部自分のものだから全部自分のために使う、というような人が多いらしい。人のことは言えないが。アメリカなんかでは、企業でも個人でも、持っているものはいろんなところへ、教会とかいろんな団体とかへ献金するという気持ちがあるそうだ。それが慣習となっているということもあるのかもしれないが、自分が稼いだ、ということだけではなくて、与えられたという気持ちがあるからなのかな、と想像する。自分の力で自分が稼いだ、という気持ちだけならば、自分のためだけに使いたい、他の人のためには使いたくないと思う。けれどもみんなで生きるための分をたまたま自分の所へ預けられた、と思えばそれは自分のためだけではなく他の人のためにも使おうと思えるだろう。案外お金はそうやってみんなで生きるために私たちのところへ預けられているのかもしれない、と思う。
恵み
実は、お金に限らず、私たちに必要なもので私たちに与えられるものっていうのは、私たちの働きに応じて与えられるとは限らない。むしろそうではないことが多い。私たちは空気がなければ生きていけないけれども、その空気は私たちが何かをしたから与えられている訳ではない。何かの報酬として、あるいは、何か私たちがいいことをしたからということで、与えられるというものではない。
私たちの命そのものも、それは結局は与えられたものだ。今こうして生きていられるのも、私たちがそれなりのことをしたとか、それなりのものであったから生きながらえているというわけではない。ほとんど、たまたま生かされているに過ぎない。自分がそれなりのことをした報酬として生かされているわけではない。
生きていること自体そうやって与えられた中で生きている。働いた報酬として生きているのではなく、恵みとして生かされている。けれども、いつしか私たちは自分の働きの応じて何もかも与えられるべきだ、それが当然だと思っている節がある。それだけの働きをしてきている、という自負を持っている。
1デナリオン
聖書の中で、主人が夜明けに一日1デナリオンの約束で労働者を雇った。1デナリオンは一日の賃金。一日を生きていくための賃金。まっとうな報酬である。
主人は9時と12時と3時にも同じように労働者を雇い、5時からもまた雇った。誰も雇ってくれなかったという人を雇った。そして夕方になって報酬を支払う時が来ると、5時に雇われた人から順番に支払われた。その人に1デナリオン支払ったという。5時から働いて一日分の給料を支払ったというのだ。
3時の人も12時の人も9時の人もきっと1デナリオンずつ支払ったのだろう。そして夜明けから働いた人にも支払ったが、やっぱり1デナリオンだったというのだ。そこでその人たちが、朝から暑い中を働いたのに、夕方からしか働かなかった奴らとどうして同じ給料なのか、と文句を言ったというのだ。
そりゃそうだろう、という気がする。5時から働いて1デナリオンなら、夜明けからだと10デナリオンくらいになるか、と計算しても不思議ではない。時間に応じて報酬が支払われるとしたらそうなるのが普通である。時間に応じて報酬が増えるというのがこの世の習わしである。しかし天の国ではそうではない、とイエスはいうのだ。天の国では、その日雇われた者は何時に雇われてもその日一日の給料が貰えるというのだ。その日生きていくだけのものが与えられるというのだ。そして後にいる者が先になり、先にいる者が後になる、と言うのだ。
先、後
後の者が先になる。
人生のどこで神に出会うのか。若い頃に出会う人と、年を重ねてから出会う人とがいる。若い頃に出会って長いことクリスチャンをしている人が偉いわけではない。
ならば死ぬ直前に信じればいいじゃないか、それまでは勝手気ままに生きていて、死ぬ直前に天国行きの切符を貰った方が得策だ、と考える人がいる。神を信じるということが、天国に行くために神の命令通りの面倒な生き方をしなければいけないということならば、死ぬ間際に信じることが一番面倒がないということになる。
しかし天国とは、そういうものではないらしい。神を信じて生きるということが、戒めを守って本当はしたいことも我慢して生きることであるならば、確かに出来るだけ好きなことをして死ぬ間際に信じますと言って天国行きの切符を手に入れればそれが一番うまい生き方かもしれない。神を信じるということが難行苦行、ただ辛いばかり、ただ苦しいばかり、苦しみに耐えることばかり、というのであれば、できるだけ信じないでいた方がいいということになる。それで地獄に行ってしまうと大変だというのであれば、死ぬ間際に信じるというのが一番効率的な生き方ということになる。
しかしイエスのいう天の国は私たちのただ中にある。神と出会うところが天国である。自分の仕事を与えられること、自分のすべきことを与えられること、それが救いなのだ。やるべきことを与えられず、見つけられないということは辛いことだ。自分の居場所が定まらない、見つけられないことは苦しいことだ。
その日一日の賃金の当てのないままに時間を過ごしていくことの方が、暑い中とはいえ、賃金を約束された上で働くよりもきっと辛いことだろう。その中で5時まで待っているということは大変なことだっただろう。天の国とは、その日の賃金を保障されて、安心して働くようなものなのだ。安心して生きていくところなのだ。朝から安心していられるか、夕方になって安心するのか、それは人それぞれということになる、しかしどちらにしても一日の賃金は保障され支払われるということだ。天の国とはそういうところであるというのだ。
神のもの
賃金をいくら支払おうとそれは支払う側の問題である。主人は、賃金は自分のものであり、自分のものを自分のしたいようにしているだけだ、という。気前よく与えることをどうしてねたむのか、という。
私たちが報酬だと思っているものは、実は神からの恵みなのかもしれない。神が今日一日の必要なものを与えてくれている、その中で自分の働きをしている、それが私たちの実体なのかもしれない。自分が働いたら報酬を貰える、今の社会の賃金は確かにそんな風に貰えるが、私たちが生きる上で必要なものは、私たちが働いたから貰えるのではなくて、働く以前から私たちに与えられている、働きがどうであれそれ以前に与えられている、つまり恵みなのではないか。神の恵みは、本来の働きに対する報酬なんかに比べものにならない大きなものなんだろうと思う。人の報酬に文句を言うのは、自分が100円分働いたのに対して1万円もらっておきながら、あいつは10円分しか働いてないのにどうして1万円貰えるのかと文句を言っているようなものかもしれない。
私たちは神から生きることを支えられている、その上で私たちはそれぞれの務めを行っているということなのだと思う。私たちは実はすべて神の恵みの中に生かされているということなのだ。そしてそこが天の国なのだ。
恵み
私たちは今いろんなものを与えられていることの不思議を考えなければいけないのかもしれないと思う。そして今与えられているものにもっともっと感謝しないといけないのかもしれない。神が私たちに必要なものを備えてくださっていることを感謝していきたいと思う。そしてそうしてくれているから、安心して自分の務めを果たしていける。安心して献げることもできる。
神を信じるということは、地獄に行かないために難行苦行をしてでも神の掟をただ守って生きるということではなく、神に守られていることを知って安心して生きるということだ。そして神から託された務めを果たすことだ。神が守ってくれるからただ何もかもしてくれることを待っているというのではない。何もしないことはつまらないことだろう。自分がすべき務めを持っているということは嬉しいことだ。喜びは自分がそんな務めを果たすことができるということで得られるのだろう。
私たちの務めは、この福音を、神の言葉を伝えていくこと、そしてここにみんなが安心して集まれる教会を作っていき、そしてみんなを招いていくことだ。
神の恵みを感謝し、私たちも自分に託されている務めを果たしていこう。そこにはきっと新しい喜びがある。