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礼拝メッセージより
説教題:「愛すること」 2005年4月10日
聖書:マタイによる福音書 5章38-48節
目には目を
『目には目を、歯には歯を』。被害を受けたものは同じだけの刑を与える、もしくは復讐できる。
これはやられた時には必ずやり返せと言う命令というふうに思われている。殴られたら何倍にもして殴り返せと言う命令と。しかし聖書の言う「目には目を」はそういう意味ではない。
犯罪に対する適切な刑罰を下すということ。無制限の復讐を禁ずる。
出エジプト記21:23 もし、その他の損傷があるならば、命には命、21:24 目には目、歯には歯、手には手、足には足、21:25 やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。
やられたらやり返せ、ということではなく、同じ物で償う、ということのようだ。たとえ地位が高くとも、金持ちでも同じ刑に服するということだろう。憎しみを何倍にもしてやり返すようなことのないようにということだろう。
復讐を奨励しているのでもなく、社会の秩序を守るための律法である。
しかし実際には「目には目、歯には歯を」という今日的な意味が示すようにやられたらやり返す、しかも何倍にもしてやり返すというのが世の常だ。復讐が復讐を呼ぶ連鎖反応が起こる。やられたからやり返すの繰り返しは尽きることがない。いつまでも終わらない。そして自分たちがいかにやられたかをいうことを代々伝える。広島でも原爆でやられたということばかりをよく聞く。そして結局いつまでたっても戦争はなくならない。復讐が新しい憎しみを生み出す。
イエスはやり返すなと言う。律法が認めている権利すら行使するなと言う。右の頬を打たれたら打ち返すという権利を行使しない、それどころか左の頬をもむけろという。
実際に頬を打たれるということはあまりない、しかし侮辱を受けること、陰口をたたかれることはよくある。たとえいいことをしている時でも余計なうわさを流されることはある。かっこつけているとか、誉められたいのだろうとか言われることはある。そんな時、そうじゃないんだと言いたくなるが、イエスはそんな時にも放っておけと言われているのかもしれない。
下着
また「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」と言う。
訴えて下着を取るというのは、多分損害賠償か借金上の訴訟で担保として下着を取る場合だろう。もう下着くらいしかない貧しい状態である。
出エジプト記では「22:26 もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない。」「22:27 これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。」とある。だから上着だけはどんなことがあっても自分のもとにおいておける。
ところがイエスはその上着をもとらせなさいと言う。自分の当然の権利さえも放棄しろと言われる。
強制労働
第3番目に「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」と言う。「強いる」という言葉は役人の命令で道案内や荷物運びをさせられるような時に使う言葉だそうだ。イエスが処刑場まで十字架を担いでいく途中でクレネのシモンに十字架を無理に負わせた時の言葉と同じ言葉。
当時はローマ帝国に占領されている時代で占領軍が道案内や荷物運びの命令を出していたのだろう。ローマ軍の占領に反対する革命的な運動であった熱心党はそのようは働きに抵抗しようとしていたらしい。それに対してイエスはまるで正反対のことを言っている。1.5km行かせられる時には3kmいっしょに行きなさいと言う。
なんでこんなことをしないといけないのかと思うことがある。どうして私がしなければいけないのか、ということが。しかしイエスはそれよりももっとしなさいと言われている。無理強いさせられていると思うことの2倍もしろというのだ。
自分のためにしたいことがいろいろある、自分のためにして貰いたいこともいろいろある。しかしそれよりも誰かのため他の人のために、しかも積極的にしなさいと言われる。
最後にイエスは「求める者には与え、借りようとする者に背を向けるな」と言われる。
どれもこれもなかなか出来ない。まるで出来ない?
敵を愛す
さらに「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と言う。
天の父がだれにも太陽を昇らせ雨を降らせるように、誰に対しても愛を持って接しなさいということのようだ。だから自分を愛するものを愛するなんてのも、兄弟だけに挨拶することもまるで自慢することではない、と言う。なんともきびしい。
敵は憎むものだ。憎むからこそ敵、という気もする。敵とはだれのことなのか。敵の国、同じ国の中にも、同じ国民の中にも、同じ学校、会社の中にも、同じ教会の中にも、同じ家族の中にも敵となる者がいるのか。あるいはだれでも敵となる可能性があるのかもしれない。
ここで愛するとはただ好きになるということではない。ここではアガペーと言われる言葉が使われている。神の愛の時に使う言葉。たとえ自分がどんなことをされてもその人にとって一番いいことをしようとすることである。
肉親を愛するという愛とは違う愛である。肉親を愛する思いは自然に生まれる。愛さないではいられない。しかし敵を愛する愛は自然に心に芽生えては来ない。この愛は好きになると言う感情ではない。それは愛する気持ちになるというよりも愛そうとする意志である。愛そうとする決意。アガペーの愛とはそういう愛である。
そういう愛をもって人に接する、そしてその人のために祈る、敵でさえも祈る、それが天の父の子となることだと言う。つまりそれこそが神に作られた人間にとってふさわしいことである、と言うのだ。
これは単なる理想論か。こんなことできない、という一言で片付けてしまいそうである。いくらイエスの言葉だからと言ってもこれはできない注文だ、と思いたくなる。できない私はだめなのよ、と言って自分を責めるか、出来る訳ないと開き直るかしかないのか。
完全な者
48節には「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」とある。
完全な者とは? 完全無欠の人間のことのように思う。
しかしこの完全と言う言葉は機能的なことに使う言葉。旧約のいけにえとして献げる傷のない犠牲を指す言葉。また成人した大人を指す言葉。また専門的な知識を持つようになった人を指す言葉。
つまり何かの目的のためにふさわしい者を指す言葉。あらゆる方面に全く欠点のない者のことではない。
つまりここで完全な者とは、人間本来の目的にふさわしい人間ということだ。神にかたどって創られた人間にとってふさわしい生き方をするものと言うことだ。
つまり私たちにとってふさわしい生き方は人を愛する生き方だということだ。たとえそれが敵であっても。
もちろんそのための大前提は、神が私を愛し、私を憐れんでいる、私を赦している、ということだ。私たちの神はそういう仕方で私たちに接しておられる。だから私たちもこの神と同じように生きる、それが私たちにとってふさわしい、完全な生き方なのだ。
父なる神は悪人も善人にも同じように太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも同じように雨を降らせてくださる、と聞くときどう思うだろうか。
どうして悪人にも私と同じにするのか、あんな奴らには悪いものを与えればいいのにおかしいじゃないかと思うか。それとも、こんな悪い自分にも善人といいものを与えてくれてありがたいと思うのか。
なぜそんなことをするのかと思うとき、自分は善人であると勝手に思い込んでいる。本当は自分が善人かどうかわからないのに。本当は悪人の側にいるかもしれないのに。
私たちは一体善人なのか、悪人なのか。ついつい自分を善人の側においてしまっていることが多いのではないかと思う。実際私たちはきっと悪人なのだ。神に従えない、神の言葉にそむいてばかりの悪人なのだ。しかしそんな私たちに対しても、神は太陽を昇らせ雨を降らせてくれている、善人と同じように恵みを与えてくれているのだ。
あなたは一体どこに立っているのか、善人の側か、悪人の側か、実はそこを私たちは問われているのだろう。聖書を読んでも何の喜びもない、できもしないようなことばかり命令されていると感じているとしたら、それは自分をいつの間にか善人の側においてしまっているからかもしれない。
罪深い私を赦し、神の子として下さっていることに感激して喜ぶ、そこから私たちの信仰が始まるのだ。だからあなたたちは神の言葉を聞いて神の子としてふさわしく生きなさい、敵を愛して生きなさいというのだ。
愛すると言うことは、ただ悪も善もどうでもいいことにするということではないだろう。何でも相手の願いどおりにすることが愛するということとは違うだろう。悪いことは悪い、間違っていることは間違っていると伝えること、それはとてもしんどいことだ。でもそれこそが本当に愛することなのだ。神は悪人は愛しているが悪を愛しているわけではないから。悪を指摘して、悪を離れるように促すことも私たちにとっての大事な務めなのだ。
自分を善人だと誤魔化している間は神の愛は多分本当にはわからない。自分の悪を知ったとき、自分の罪を知ったとき、自分のだらしなさを知ったとき、そこで初めて神の愛の大きさがわかるのだ。