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礼拝メッセージより
説教題:「さいわいだ」 2005年4月24日
聖書:ルカによる福音書 6章20-26節
昔のコマーシャルに「しあわせって何だっけ、何だっけ」という歌があった。幸せってなんなんだろう。どうなることが幸せなんだろう。みんな幸せを求めているが、幸せってどういうことかってのはあんまり明白ではない。あまりはっきりしないものを一所懸命に追っかけているというのはなかなかつらいことでもある。
今日の聖書の言葉は、原文では、「さいわいだ」という語が文の一番初めに来ているそうだ。「あなたがた」というのは、直接は弟子たちを指しているであろう。しかしそこには12弟子たち以外にも「大勢の弟子たちと、おびただしい群集」がいたことが17節に書かれている。だから「あなたがた」とはイエスに従っていたすべての人を含んでいると思う。また私達もそこに含まれると思う。
イエスは貧しい人々、飢えている人々、今泣いている人々がさいわいだ、と言う。ここでいう貧しい人という言葉は、乞食たちを指す言葉なんだそうだ。ただ比較的貧乏であるということではなく、乞食をしているような状態の人のことだそうだ。しかしなぜそんな状態がさいわいなのか、とても理解できないことのように思う。
私達は常に、「さいわい」、「幸せ」な状態を求める。親は子の幸せを願う。結婚したカップルには、「お幸せに」と言う。「幸せ」を求めるというのは、古今東西を問わず、すべての人間の求めるものであるらしい。
しかし何がどうあることが幸せなのかは、時代によって人によって異なる。私達は果たしてどのような幸せを求めているのか。
一般的には、いい学校を出て、いい会社に就職をして、有利な結婚をして、財産を得て、健康で長生きすることが幸せだと考えているのではないか。親が子どもに対して願うこともそのようなことが多いように思う。そのためには小さい時から習い事をして、ということになるのだろう。
聖書にも世間一般で言われているような、良い物を持つことが幸せであるというような言葉もないわけではない。しかし聖書では幸せの根本は何よりも神との関係において見られている。すなわち、聖書では、神との正しい関係にあるというのが、最も幸せということだ。
詩篇の中にも「さいわい」の言葉が多くある。そもそも詩篇は、この「さいわい」で始まっている。
「いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。」(1篇1−2節)
詩篇の記者はまず最初に、神の前に正しくあることが本当の幸せなのだ、と主張している。
今日のテキストに出て来る最初の三つの事柄は、いずれも、世間一般では決して幸せとは考えないものだ。貧しい人、飢えている人、泣いている人は、私達は普通不幸な人だと考える。そして、何とかしてそのような状態になりたくない、と思う。
しかし、イエスは、そのような貧しい人、飢えている人、泣いている人はさいわいだと言う。
マタイによる福音書では「こころの貧しい人たちはさいわいである」と「こころの」という言葉が付け加えられている。これについては、多くの学者は、ルカのテキストの方が元の形であっただろう、と言っている。すなわち、イエスの言われたのは、文字通り「貧しい人」だったというのだ。それをマタイは、「こころの」というのを付け加えて精神化したという。また、「いま飢えている人たち」もマタイの方では、「義に飢えかわいている人たち」と精神化しているし、「今泣いている人たち」も「悲しんでいる人たち」と抽象化されている。このようなことからもルカのテキストの方が元の形であったように思われる。
イエスに従ったガリラヤの人々は、多くは実際に貧しい人たちだったようだ。社会保障も何もない時代、貧しいということは社会的に本当に弱い存在だったであろう。人々から重んじられず、それどころか相手にもされなかった。物質的に困るだけでなく、人々からも相手にされないという孤独感、精神的な淋しさも味わわなければならなかった。
彼らは、自分の力の無さをも痛感し、もう神に頼るしかない、という気持ちだったのではないか。貧しいというのは、自分に何の頼りとするものがないということだ。そこでおのずと神により頼むという態度になる。そういう者たちがイエスに従っていたのだろう。
しかしここでイエスは、貧しい状態そのものが幸いだ、飢えている状態そのものが幸いだ、泣いている状態そのものが幸いだ、と言っているのではない。彼らに神の国が与えられるから、彼らが満たされるようになるから、笑うようになるから幸いだ、と言っているのだ。
「神の国」というのは、神の支配ということ。神の支配の下にあるということが本当の幸せなのである。それが人間の本来のあり方であるからである。人間は本来神の支配の下にある者として造られた。なのに他のものに頼ることで、ある人は唯一の支配者である神から遠ざかっていく。24節にあるように、富んでいる人は、富みによって満足しているので、神の支配を求めようとしないからだ。
今の日本は、富んでいる国と言われている。しかしその反面精神的には、非常に荒廃している。すべてが金だ、という価値観だ。ものの価値を金に換算している。金に換算できないものの価値を見失っているように思う。思いやりや優しさなどはほとんど価値を失っているような気がする。
私たちはお金を持っていないことに対する嫌悪感がいっぱいあるのかもしれない。貧しくなることに対する恐怖感もいっぱいあるような気がする。
イエスはお金にばかり縛られないでいいと私たちに言っているのかもしれない。お金がいっぱいあるときはにこにこしてて、少なくなるとしかめっ面をするような、財布の中身が幸せの度合いと思うような、そんなことになっている私たちに対して、そうではないんだ、もっともっと大事なものがあるんだ。あなたたちが勝手に不幸だと思っている状態も、そこをも神が支配しているならば幸福なのだ、やがて神が神の方法であなたを満たすから、やがて神があなたを笑わせてくれるから、だからさいわいなのだ、そう言われている。
いや、もうどうしてなのかわからないけれども、貧しくて、腹減っていて、泣いている、あなたこそがさいわいなのだとイエスが言っている。私たちの価値観と全く違う価値観がそこにある。あんたは幸いなんだよ、と言われているのではないか。不幸だ不幸だと不幸をいっぱい数えている私たちに対して、イエスはあんたは幸いだと言われているのではないか。これは私たちの人生をひっくり返す言葉でもある。