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礼拝メッセージより
説教題:「十字架のもとへ」 2005年3月20日
聖書:ヨハネによる福音書 19章16b-42節
十字架へ
大祭司やファリサイ派の者たちによって捕らえられたイエスは、総督であるピラトのもとへ連れて行かれた。ピラトはイエスに罪はないと思い釈放しようとする、ユダヤ人たちがイエスを十字架につけろとあまりに強硬に主張するので、その声に負けてユダヤ人たちの望むようにイエスを十字架につけるために彼らに引き渡した。ピラトにとってはここで暴動を起こされてしまうことが一番困ることだったのだろう。
イエスはゴルゴタという場所まで、自分で十字架を背負って歩かされた。そこは地形が骸骨に似ているので、されこうべの場所、ゴルゴタという名前になっていたそうだ。イエスは三つの十字架の真ん中につけられた。十字架の上には罪状書きがつけられた。そこにはヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。当時の三つの主要な言葉で罪状書きが書かれたので、その日過ぎ越しの祭りのために各地からエルサレムに来ていた大勢の人が「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という言葉を読んだことだろう。ユダヤ人の祭司長たちはそれが気に入らないので、ユダヤ人の王と自称した、と変えてくれと頼んだが、ピラトは私が書いたままにしておけと言ってそれには応じなかった。十字架につけることはユダヤ人たちに押し切られてしまった、その腹いせにユダヤ人たちがいやがることをわざわざ罪状書きに書いたということだろう。
十字架のもとで
イエスの十字架のもとに二組の人たちがいた。兵士たちがイエスの服を取り、四つに分けた。そして下着も分けようとしたが一枚織りだったのでくじ引きをした。この福音書の記者にとってそれはまさしく旧約聖書の詩編22:19で言われていたこと「わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く」が現実となったことと見えた。
十字架のもとにはもう一組の人たちもいた。イエスの母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリア、そして愛する弟子がいた。
イエスは母に、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と言った。そして弟子には「見なさい。あなたの母です」と言った。そしてこの弟子はイエスの母を自分の家に引き取ったというのだ。
成し遂げられた
そしてイエスは最後に「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取った。全部終わった、神の計画は全部終わった。私たちのために肉体をもって地上のこられたイエスのなすべきことは完了したというのだ。父なる神のみ心を行うというイエスの務めはここで全部完了した。
イエスはユダヤ人たちにねたまれて処刑されてしまった。しかしただ処刑されたのではなく、自ら命を捨てた。「10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」と言われていたように、自分から命を捨てた。そしてそれは神から受けた掟、神の計画だったのだ。しかしそれはイエスにとっては決して安易な、楽なことではなかった。苦しく辛く避けて通りたいことだった。けれどもイエスはそれが「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか(18:11)」と言って、苦い杯ではあるけれどもそれを自ら飲むのだと決意していた。そのことが、私たち人間を助けること、私たちを救うことであることを知っていたのだ。私たちを愛しているから、イエスはこの苦い杯を水から飲んでくれたのだ。
勇気
イエスは十字架上で死んだ。旧約聖書の申命記21:22-23では、「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」とある。この日は安息日の準備の日であり、特に大事な過越の準備の日であった。日が暮れると安息日が始めるために、それまでに遺体を十字架から降ろさねばならなかった。
その時アリマタヤのヨセフというイエスの弟子が遺体を取り降ろしたいとピラトに願い出た。このヨセフはユダヤ人たちを恐れてイエスの弟子であることを隠していたが、彼はイエスの死を前にして自分から願いでるようになった。
そしてそこにニコデモも没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持ってきて埋葬の準備をしてから埋葬した。ニコデモはかつて夜こっそりとイエスのもとへやってきてイエスに質問した人だった。
ヨセフもニコデモもユダヤ人の間ではそれなりの地位にある人だった。ヨセフは最高法院の議員だった。彼らはイエスの教えに魅力を感じてはいても、公に弟子であるという勇気はなかった。しかしイエスの十字架と死を目撃してから彼らは変わったようだ。
十字架
イエスは十字架で死んだ。人間の妬みや嘲りをうけながら、それでもそれに対して逆らうこともなく、反撃することもなく、全部吸い取ったかのように、ただされるままに十字架につけられた。十字架につけられてもそこから降りてくるでもなく、自分を十字架につけた者をも糾弾するでもなく罵倒するでもなく、そのまま死んでしまった。最低最悪の事態になってしまったといったところだ。希望のかけらもない。人間的に見れば、まさに完全に神に見捨てられてしまった状態だ。
ところがそれが神の計画だった、そこで神の計画は完了したとこの福音書は告げるのだ。私たちから見れば最悪の事態に陥ってしまったと見える、そこにも神の手が届いているということだ。完全に神に見捨てられてしまったかのように思えるところをも神は見ているということだ。
何をやってもうまくいかなくて、悪いことばかりが次々と起こることがある。何をどうしても改善しなくてどんどん悪くなる、いつしかみんなから見捨てられてひとりぼっちになってしまい、誰に助けを求めればいいのかも分からなくなってしまう、なんてこともある。どうにかする元気も勇気もなくなって、もうどうにでもなれ、なんて思う。
でもそんな時でも神は支えてくれている、私たちが最低だと思うような状態でも、そのしたからイエスは支えてくれている。イエスの十字架は私たちのどん底のその下に立っているのだ。イエスはそこまで降りてきてくれた、そしてそこまで神の支配を広げてくれたのだ。だから私たちは決してひとりぼっちではない。どこでどうぶっ倒れようとイエスは共にいてくれる。
十字架で死ぬという真っ暗闇のような事態に、しかしそこに既に神の光は差し込んでいることを、ヨセフとニコデモはもうすでに感じているのだ。そして父なる神はこのイエスを甦らせて、そのことを明らかにされた。私たちの希望はここにある。
どれだけ失敗しても、どれだけ傷ついても、イエスは私たちと共にいてくれる。私たちを見捨てはしない。何があろうとイエスは私たちの人生を根っこから支えてくれている。失敗してもいい、挫けてもいい、何があっても私が支える、どこまでもいっしょにいる、だからもう一度やってみなさい、イエスはそう言われているのではないか。
私たちはこのイエスの十字架のもとに集められている。