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礼拝メッセージより
説教題:「絶望の中の希望」 2005年3月27日
聖書:ヨハネによる福音書 20章19-31節
主日
その日、それは週の初めの日。つまり日曜日。それはイエスの復活の日。だから主の日。ユダヤ教では土曜日が聖なる日、安息日だったが、キリスト教では日曜日、つまりイエスの復活の日を主の日、として礼拝するようになった。だから主日礼拝と呼んでいる。その主の日の出来事が今日の箇所である。
平和
その日弟子たちはユダヤ人を恐れて家の戸には鍵をかけていたという。師匠であるイエスの処刑に弟子たちは打ちのめされていたようだ。次は自分たちにも同じような運命が待ち構えているかもしれないという恐怖におののいていたのかもしれない。
3年間イエスに従ってきた。イエスに希望を託し、それぞれの人生を掛けてきたのではないか。3年間は決して短い期間ではない。人生の挫折、失望。命を掛けた戦いに敗れたか。しかもそんな命を掛けて従っていたはずのイエスを最後には見捨ててしまったのだ。どこまでもイエスについていけたならば、そこでどうなろうと自分自身納得もできたかもしれない。しかしそれもできなかった。かつての生活を捨ててすべてをイエスにかけて従っていったはずなのに、そのイエスをも見捨ててしまったのだ。自分たちの生きる道を見失ってしまったであろうし、また自分たちの不甲斐なさも思い知らされていたのではないだろうか。そんな恐怖と絶望と挫折と、いろんな思いに弟子たちは打ちのめされていたのだろう。
しかしそんな中にイエスは現れる。復活のイエスが現れる。行き場のない、どこに行く力もなくしている弟子たちの中にイエスが入って来たというのだ。そして、あなたがたに平和があるように、と言う。
弟子たちはそのイエスを見て喜んだ。家の戸に鍵をかけ、何者をも寄せつけないようにしていた、そして彼らの心の中も同じような状態だったのではないか。誰の励ましも慰めも聞こえない、聞けない状態だったのではないか。しかしそんな中にイエスは現れる。イエスは弟子たちを責めに来たのではない叱りに来たのではない、裁きに来たのではない。平和を、平安を与えるために来たのだ。そしてそのイエスに会うことで弟子たちは喜んだ、のだ。
赦し
イエスは弟子たちに息を吹きかけて、聖霊を受けなさいという。そしてだれの罪でも、あなたがたが赦せばその罪は赦される、赦さなければ赦されないまま残る、という。結局それは神がすべての罪を赦されるということを認めない、ということだ。神はすべての罪を赦す力がある。だから赦しを語り告げなさい、それがイエスが弟子たちに与えられた使命なのだろう。
でも、だからあんたも赦しなさい、と僕らは誰かに言えるのだろうか。結構簡単にそんなことを言ってしまう。しかしイエスから言われている言葉をそのまま誰かに言うことはできない。聖書のここにこう書いているじゃないか、だからあんたも赦しなさい、どうして赦さないの、なんて言うとしたらその人は神になってしまっている。神に代わって誰かを裁いて、結局はその人を赦さないことになる。赦しなさい、というのは徹底的に自分自身に語られた言葉なのだ。また赦すというのは相手を解放するだけではなく自分自身をも解放することだ。赦さないというのは、相手をその罪に縛りつけておくというだけではなく、赦さない自分自身をもそこに縛り付けることになる。相手を赦すというのは、赦せないという思いや赦せないという苦しみや憎しみから自分自身をも解放することでもある。だからイエスが言う、赦さなければ赦されないまま残るというのは相手に残るだけではなく赦さない自分にも残るということなんだと思う。そしてそこにはイエス自身が弟子たちを赦している、自分もあなたたちを赦している、あなたたちは赦されている、だからこそ赦しなさいとイエスは言うのだ。
疑い
ディディモと呼ばれるトマスはその時そこにいなかった。ディディモとはふたごという意味だそうだ。トマスは最初の日にイエスが弟子たちの所に来られた時には一緒にいなかった。そして他の弟子たちからイエスを見た、と聞いても信じなかった。釘跡に指を入れて、わき腹に手を入れてみないと信じないと言ったというのだ。
トマスは疑い深いのだろうか。よくそんな言われ方をするが。そうかもしれないがとても堅実なのではないかという気がする。私たちは周りの声にすぐに踊らされてしまうことが多いがトマスは自分でそれを確かめないと信じないと言う。
そのトマスが一緒にいる時にイエスはまた弟子達のところへ来られた。そしてトマスに、あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じるものになりなさい、と言う。トマスは、わたしの主、わたしの神よ、という。イエスは最初そこにいなかったトマスのためにまた現れたのだろう。十字架に付けられた姿のイエスが、傷を負った姿のイエスがトマスにも現れた。イエスは最初に弟子達に現れた時にも手とわき腹とを見せたという。トマスは指を釘跡に入れないと、手をわき腹に入れないと信じないと言っていた言葉に反して、そんなことを全くすることなくイエスを、イエスの復活を信じた。
トマスはイエスのために死ぬことが出来る人間でありたいと望んでいたようだ。しかし現実にイエスの身に危険が迫ってくると彼はイエスのもとにとどまることが出来なかった。そしてそれはトマスにとってもつらい現実だったのではないか。かつて自分はイエスと一緒に死ぬこともいとわないという熱意を持っていた。死ぬことも出来るという自信もあったのだろう。しかしそうではなかった、そんなことは出来なかったという自分を、自分の無力さをだらしなさを思い知らされていたのではないか。
トマスにとってもイエスが復活されたということは喜ばしい出来事だったに違いない。だからこそ余計にそれが本当なのかどうかを確かめようとしているのだと思う。人の話しを下手に信じれない、下手に信じて実は間違いでしたと言うようなことになったときの落胆をトマスは知っていたのではないか。本当にイエスが復活したならそこでもう一度やりなおすことが出来るかもしれない、そこにもう一度人生を掛けることができるかもしれない、それが出来るかどうかの瀬戸際なのだ、だから簡単に人の話しだけで信じることは出来ない。自分でしっかりと確かめないではいられない、そんな心境だったのではないだろうか。だから敢えて強い調子で、釘跡に指を入れ、わき腹に手を入れないと信じない、なんてことを言ったのではないかと思う。ただ単に疑い深いとか不信仰だからというわけではないような気がする。それだけトマスにとっては大切な重大な問題であった、いい加減では済まされない問題であったということだっただ。だからトマスが、わたしの主、私の神よ、と言った言葉もとても真剣な言葉だったのではないか。そしてきっとそれは喜びの言葉だったのではないか。トマスは実際にはイエスに触ることはしないでイエスを主、神と告白している。
面白いことにその見るまで信じなかったトマスも弟子たちの中にいっしょにいる。疑いの言葉を吐くトマスを他の弟子たちも受け入れている。信じない奴はどこかに言ってしまえ、俺たちの言うことを聞かない奴は出て行け、とは言っていない。そんなトマスを他の弟子たちはそのままで受け入れている。そしてトマスも弟子たちの中に留まっている。そんな中でトマスも復活のイエスと出会うことになった。
見ないで
復活とは一体何なのだろう。イエスはどんな姿で復活したのだろう。よくわからない。どこにそんな証拠があるのかという気もするが、科学的に証明できるような証拠はどこにもないようだ。
しかしたとえそんな証拠があったとしても、それが自分に関係のない出来事であったならばそれは自分にとっては何の意味もない。
弟子たちは復活のイエスに出会った、と聖書は告げる。イエスが逮捕され十字架につけられようとしたとき、12弟子たちはみんな逃げてしまった。そして周りを恐れて家に鍵をかけて隠れていた。その弟子たちは50日後には堂々とイエスを伝えるようになった。イエスがキリストであること、自分達はその弟子であることをみんなの前で離すようになった。彼らにいったい何が起こったのだろうか。
弟子たちはイエスと出会ったのだ。どんな形だったのかはよくわからない。けれども確かに出会ったのだ。弟子たちは復活のイエスと心の中でしっかりとであったのだろう。目に見えるような形での出会いだったのかどうかはわからないが、弟子たちは確かにイエスに出会った。失意のどん底にあった弟子たちは元気になっていった。そんな出会いがあったのだ。
イエスが十字架で死んでしまった。全てをかけていた師匠がこともあろうに十字架で処刑されて死んでしまった。お先真っ暗、完全に望みが絶たれてしまった、そんな状態だった。
しかし人間には全く希望のないと思えるところ、そこをも神は支えていた。父なる神がイエスを復活させ、私たちと出会わせて下さる、そこに私たちの希望がある。
先に召された方々もそんな希望を持って生き、そして死んでいった。死を前にすると、私たちには全く希望がないように思える。しかし神はそこをも支配されている、そこにもイエスはいて下さる。復活のイエスはそこにもいてくれている。それが私たちの希望である。