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礼拝メッセージより
説教題:「分かち合う」 2004年12月26日
聖書:ヨハネの手紙一 3章11-18節
カインの末裔
イエス・キリストの一番の教え、一番大切だと言われたこと、それは愛し合うことだった。目に見える決まり事を守ることが大事なのではなくて、愛し合うことが何よりも大事なことだった。それはキリスト教会が始まった当時から今に至るまで同じ大切なことだった。ところがやはりキリスト教会が始まってから今に至るまでなかなか実行されていない教えでもあったようだ。一番大事な教えを守らないできたのならば、一体何をしてきたんだろうかと思う。何を守ってきたのだろうか。一番大事なことをほったらかしておいて、格好ばかりつけてきたということかもしれない。なかなか耳が痛い。
愛し合うことができなかった代表としてこの手紙ではカインが登場する。カインは旧約聖書の創世記に出てくる。最初の人間アダムとエバの長男として誕生したのがカインであり、次男がアベルだった。創世記4章にそのことが書かれているが、この兄弟の生い立ちはそれほど詳しくは書かれていない。生まれたと書かれた後には、すぐにアベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった、と書かれている。そして兄弟が主に、神に献げ物をした。カインは土の実りを献げ、アベルは羊の群れの中から肥えた初子を献げた。主はアベルの献げ物には目を留めたのに、カインの献げ物には目を留めなかった。カインは激しく怒って、弟を殺してしまったというのだ。
ヨハネの手紙ではそんなカインのようになってはいけないという。兄弟を殺すようなことをしてはいけないと。確かにその通りだ。しかしカインはなぜアベルを殺してしまったのか。献げ物に目を留めなかったのは神であって本来アベルとは関係ないのに。本当はただ神に対して怒って文句を言えばよかったはずなのに、そこにアベルがいるというのが曲者だった。カインの怒りはアベルに向かってしまった。神がどっちか一方だけ選ぶと言ったわけでもないのに。カインとしては自分の献げ物とアベルの献げ物とを比べてアベルの方を選んだ、アベルがいなければ自分のが選ばれたはずだ、と思ったのだろうか。あるいは、献げ物に目を留めて貰ったアベルに対する嫉妬なのだろうか。このヨハネの手紙では、カインが悪い者に属していたからだ、だから殺人者になったと言っている。
そして兄弟を憎む者は、このカインと同じ人殺しだという。どうも私たちはこのカインと同じ要素を持っているらしい。そしてその人殺しには永遠の命がとどまっていない、と言う。私たちには永遠の命がとどまっていない。しかしイエスは、そんな私たちのために命を捨ててくれたと言うのだ。私たちはそこで初めて愛を知った、愛されることを知った、愛されることで初めて愛することも知るようになるのだと思う。
命を捨てる
だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきだと言う。そしたらみんな死んでしまうじゃないかという気もする。イエスは自分の命を捨てた。しかし愛すると言うことは、実際に命を捨てることだけではなく、その後に書いているように、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しないようなことをしないということだ。つまり誰かが必要な物に事欠いているのに、それに対して何もしない、あるいは口先で同情するようなことをいうだけであるというようなことではなく、その必要な物をどうにかしようとすること、それが愛するということだ。つまり結局はそれは自分のお金とか時間とか才能とか、自分の物を与えていく、自分の持っている物を削り取って相手に与えていくということだ。自分の命全部ではなくても、少しずつでも命を削って相手のために使っていく、それが愛するということなんだろう。
だから愛するということは自分が苦しくなったり痛くなったりすることをやっていくということなんだと思う。相手の苦しさや痛さを自分が少し受け取っていくことで、その分相手の大変さを少なく出来るのだと思う。相手の貧しさを自分が受け取ることで、その分相手の貧しさが減っていくのだと思う。愛すると言うことはそういう風に相手の大変さを自分も一緒に担いでいくことなんではないかと思う。
相手が腹減っているのに、祈ってますというだけじゃ腹はふとらん。祈ってますと相手に言うことが大事なのではなく、祈った結果自分がどうしていくのかが大事なのだ。言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう、と書かれているように、実際大事なのは自分達がどう行動していくのかということだ。富を持っているのに同情しない者、ということが言われている。同情するより金をくれ、という言葉がはやったこともあったが、本当に同情するならばそこから行動が出てくるのだと思う。ただかわいそうにと思うだけで何もしないというのは本当は同情してはいないのだと思う。
だから愛するってのはとてもしんどいことだ。口で言うだけなら簡単だし自分にとっては痛くも痒くもない。けれど愛するということを実行するということはとてもしんどい苦しいことだ。まさに自分の命を削って相手に与えていくということなんだろう。けれど愛するとき、また愛されるとき、人は他の何ものにも変えられない喜びがあるのだと思う。
川が流れていないとよどんでくるように、周りからしてもらってばかりだと、受け取るばかりだと、そして与えることも愛することもしないと、段々と中で腐ってくる。段々と喜びがなくなってくる。どうしてしてくれないのか、どうして自分はこんななのかという風に自分のことしか見えなくなってくる。
自分から与えること、愛することをしていくことで私たちはきっときれいになっていく。川が清流であるためにはいつもいつも流れていないといけない。私たちの心が清流であるためには、神さまから与えられている愛を周りへと流していくことが大事なのだと思う。
フランシスコの平和の祈りの中にも、
「 神よ、わたしに
慰められることよりも、慰めることを
理解されることよりも、理解することを
愛されることよりも、愛することを 望ませてください。
自分を捨てて初めて自分を見出し
赦してこそゆるされ
死ぬことによってのみ永遠の生命によみがえることを
深く悟らせてください。」
とある。慰められ、理解され、愛されることを求め、そうされたら嬉しいと思う。けれどもそれよりも慰めること、理解すること、愛することの方が本当は喜びはずっと大きい。自分の財産も地位も名誉も私たちは一所懸命に守ろうとする。どうやってなくさないかと思う。なのにどんどんなくなっていってしまうと嘆く。
けれども実はそれらを捨てることで、与えることで増えていくのだろうと思う。しがみつくほどになくなっていくけれども、手放すことで余計に与えられていくのだろう。
私たちは一体何にしがみついているのだろうか。イエスにしがみついているのか、それとも神でない何かにしがみついているのだろうか。離してみなさい、大丈夫だ、私がお前をつかんでいるんだから、イエスはそう言っているのではないか。