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礼拝メッセージより



説教題:「ことば」 2004年12月19日 
聖書:ヨハネによる福音書 1章1-18節

 言とはなんぞや。結論から言うとイエス・キリスト
 1.はじめに言があった。
 世のはじめから天地がつくられる前から。
 創世記の1章1節には「初めに、神は天地を創造された。」とある。このヨハネによる福音書は、この創世記の言う初めと同じ初めにこの言がもうすでにそこにあった、と言う。この世が造られる初めにすでにそこにあった、と言う。
 2.神と共にあった。
 神と共にあった、ということは神とは別のものであった、ということになる。しかし全く別々にあったのではなく共にあった。
 3.神であった。
 言は神とは別でありつつ、しかしやはり神であったという。イエスは父なる神とな全く同じではないが、やはり神であり神としての性質、人格、本質をもっている。
 4.世界はキリストによって成った。できた。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」(コロサイ1:16)
 すべてのものはキリストによってできたということは、この世界はキリストの世界、キリストとの関係によってできた世界。世界はキリストのもの。神のもの。だから世界はキリストとの関係を持つことができるし、持たねばならない。キリストとの関係の中で生きるのがこの世界に生きるものの正しい姿ということになる。
 またキリストが全ての物を造ったということは、私たちに関わるものすべてがそのまま神から造られたものでもあるということだ。私たちがどこにいても、どんな時も全部神との関係の中にあるということだ。神から離れて、神との関係のない時を過ごす、神との関係のない所にいる、ということはないということだ。
 5.この言の内に命があった。
 言の内に命があった。言によってこの命を与えられる。命の元はここにある、ということだろう。
 6.命は人間を照らす光。イエスキリストが光である。そしてその光は暗闇の中で輝いている。暗闇の中で光を見つけることの喜びを思う。実際に物理的な暗闇も余り気持ちのいいものではないが、人生の暗闇に遭遇するとどうしようもなくなる。全く動けなくなってしまう。どうしていいのか、分からない。しかし、イエスは私たちの人生の暗闇の中で燦然と輝いている。イエスはまたすべての人を照らす光である。
 7.言は肉体となった。
 その言が肉体となって私たち人間の世界に来た、という。神が人間のために生き、かつ死ぬために地上に来られた。

 この福音書の著者は難しい言葉でイエス・キリストのことを説明しようとしている。なんだか分からないところもあるが。しかしとにかく、イエス・キリストは世界が造られる時からすでにいた神であり、父なる神とは同じではないがやはり神であり、人間を照らす光を持ち、すべての人を照らす。その神であるイエス・キリストが地上に来られた、そして自分を受け入れるものに神の子となる資格を与えられた、と言うのだ。

 それにしても何故に言なのか。なぜイエス・キリストが言なのか。よく分からない。
 しかし今私たちはイエスと言として接している。聖書の言葉を通して、イエスの言と接している。そしてこのイエスの言はそのままイエス自身でもあるように思う。
 神が、イエスが私たちを愛している、大事に思っているということも、神の手の中に抱きしめられるというような仕方ではなく、イエスの言葉として知らされている。
 私たちはイエスと顔と顔を合わせて話しをするようなことはできない。でもイエスの言を聞くことで私たちはイエスと会っているともいえるのではないか。
 言葉は紙に書けばただの文字であり、話せばただの音である。でもその言葉の中にはその言葉を発する者の気持ちが込められていたり、その言葉に愛が込められていたりもする。そしてその言葉を読み、また聞くことで私たちは一喜一憂することがある。それはその言葉の中に相手の気持ちや愛などがあるからだろう。実際私たちの間でも言葉によって誰かと会うということがあるように思う。誰かの一言に怒ることもあるし、反対に誰かの一言で慰められることもある。ある人は、自分が子育てに疲れて落ち込んでいるときに、たまたま公園の木のベンチに誰かが彫り込んでいた、「疲れている者は誰でも私のもとに来なさい、あなたがたを休ませてあげよう」という言葉を見てとても慰められてそうだ。
 私たちは聖書を通してイエスの言葉に出会う、それはまさにイエスと会っているようなものだ。その言葉はイエスそのものとも言えるようなものだ。
 だからイエスの言葉を聞くときは、それはイエスのすぐそばにいるようなものだ。イエスの言葉を聞くということは、イエスと面と向かって話しをしているようなものだ。
 万物を造った神であるイエスとそのようにして会うことができるのだ。
 聖書はただの書物である、といえばその通りであるが、そこでイエスと会うこともできる、そんな書物でもある。誰かが聖書は神からのラブレターだ、なんてくさいことを言っていたがしかしその通りだと思う。いくらいっぱいラブレターを貰っても、それを相手からの言葉として読まなければ嬉しくもなんともない。
 聖書も読まなければイエスとは出会えない。聖書を枕にして寝てみてもだめだ。この中の言葉を通して私たちは神に出会い、イエスに出会い、そこから私たちは喜びや平安や希望、そして愛を受けることが出来るのだろう。イエスはそんな言として私たちの中に入ってこられるのだと思う。あんたが大事なんだ、あんたのことが大好きだ、あんたを愛している、そんなイエスの言葉をしっかりと聞いていく、そんなクリスマスでありたい。

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