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礼拝メッセージより
説教題:「見つめられて」 2005年1月2日
聖書:ヨハネによる福音書 1章35-51節
出会い
イエスと弟子たちとの最初の出会い。それはバプテスマのヨハネを通してだった。バプテスマのヨハネの弟子だった。そのうちの一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレだった。彼らはヨハネが、「見よ、神の小羊」という言葉を聞いてイエスに従った。彼らはその日はイエスのもとに泊まった。
翌日アンデレは兄弟のシモン・ペトロに、「わたしたちはメシアに出会った」と言い、シモンをイエスのところへ連れて行った。
イエスはシモンのことをケファ、岩と呼ぶことにすると言われている。出会ってすぐに岩と呼ばれると書かれている。他の福音書によるとイエスはその岩の上に教会を建てるということを言われているが、このヨハネの福音書では出会ってすぐにシモン・ペトロと呼ぶことにすると言っている。ペトロは弟子たちの中心的な存在となったようだが、イエスは出会ってすぐにそんな役目をペトロに任せているということのようだ。
その翌日、イエスはフィリポと出会って「わたしに従いなさい」と言われた。このフィリポとアンデレとペトロはベトサイダという町の出身だった。その後フィリポはナタナエルに出会い、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と告げた。要するに旧約聖書に約束されているメシア、キリストに出会った、それはナザレのイエスだということだ。
ナタナエル自身はナザレの隣り村であるカナの出身だった。ナタナエルは、「ナザレから何か良いものがでるだろうか」と言った。ナタナエルにとってメシアがナザレから出るなんてことは考えられないことだったようだ。ナタナエルは聖書をよく知っていたようだ。聖書にはメシアはベツレヘムで生まれると書かれていて、ナザレのことが出てこないことも知っていたようだ。後でイエスが、あなたがフィリポから話しかけられる前にいちじくの木の下にいるのを見た、と言っているが、いちじくの木の下というのは、そこで瞑想する習慣があるのだそうだ。つまりいちじくの木の下にいるのを見た、というのはそこでお祈りしていた、あるいはメシアについて思いを馳せて瞑想していたということなんだそうだ。
ナザレからいいものが出るなんてことはない、というナタナエルに対してフィリポは、「来て、見なさい」と言ってナタナエルをイエスのもとへ連れて行った。自分が言ったことを否定されたような状況である。こんな時は、その人はこんなにすごい人なんだ、本当にメシアなんだということを一所懸命に説明して自分が言ったことが正しいということを主張しそうである。自分が言ったことの方が正しいということを相手に分からせよう、説き伏せようとしがちである。しかしフィリポは、来て見なさいと言った。けれどもフィリポは、じゃあ来て見ろよ、と言った。
教会では伝道、伝道、伝道が大切だ、伝道しましょうとよく言うけれど、伝道とは来て見なさいということなんだろうと思う。伝道は相手を説き伏せ、納得させることではなくて、来て見なさいと言ってイエスに出会わせることなんだろう。
バプテスマのヨハネも、自分の弟子をなんのためらいもなくイエスに引き渡しているようだ。あなたたちの本当の先生はこの方だ、この方に従いなさいと言ってそのまま自分は身を引いている。
大切なのは誰が紹介したかではなくて、誰に会ったかなのだ。大切なのはイエスに会うことであって、誰の紹介だったかなんてことは問題ではない。バプテスマを授けたのが誰だったかというのは大した問題ではないのだ。だから最近の信徒手帳のバプテスマ証というのには誰がバプテスマをしたかという欄はない。
そういう風に、いろんな人を介して弟子たちはイエスと出会い、イエスこそがメシアである、キリストであると告白し、そして弟子とされてイエスに従っていく。もちろん彼らがイエスの何もかもを知っていたからそう告白したわけではない。分かっていることはきっとほんの一部分だったに違いない。イエスがどこで生まれてどんな暮らしをして家族はどうでなんてことはきっと何にも知らなかっただろう。しかしその者たちをイエスは自分の弟子として呼ばれているのだ。そして弟子たちはそのイエスに従ったのだ。そして従っていく中でイエスの姿を少しずつ知っていったのだと思う。
私たちがバプテスマを受けるときとよく似ている。何もかも分かってイエスを信じ従っていこうと決心したわけではない。よく分からんけれどもイエスこそキリストだ、救い主だと信じて従っている。そうする中で少しずつイエスの姿が見えてくる。
見つめられて
イエスは何だかその時そこで出会った者を適当に弟子にしかたのようでもある。でもイエスは一人ひとりを見つめている。一人ずつ弟子にしている。弟子たちがイエスについていったのも、ついて行く決心ができたのも、イエスに見つめられていたからだろう。
イエスは弟子たちを見つめて、選び、務めを託す。任命する。何かをしたからでも、試験を受けて合格したからでもない。弟子たちを選んだとき、すでにもう彼らに弟子としての務めを託すことに決めている。
どうして彼らはイエスの弟子となれたのか。彼らはただイエスに選ばれ招かれたから弟子となった。ただそれだけ。イエスが選んだから。弟子たちにとってはどうして自分なのか、訳が分からないと言ったところだろう。
私たちがこうして今教会に集められていることも全く同じだと思う。どうして私たちがここにいるのか。もちろん試験に合格したからではない、何か特別なものを私たちが持っていたからでも、私たちがいい人間だったからでもない。ただ神が私たちを招いてくれたからだ。神から、あるいは誰かを通して、来て見なさいと声をかけられたから、私たちはこうして教会に集められイエスと出会っている。面と向かってあってはいないが、聖書を通して、言葉を通してイエスと出会っている。言葉であるイエスと出会っていると言った方がいいのかもしれない。イエスは弟子たちをひとりひとりしっかり見つめているように、私たちもそれぞれ大切なひとりとして見つめられていることだろう。
私たちにとって大事なことはこのイエスに見つめられ続けていくこと、イエスの視線の中に居続けることなんだろうと思う。
マルコによる福音書3章にはイエスが使徒として12人を選ぶ話しが出てくる。3:14-15では「そこで、一二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」と書かれている。12使徒を選んだ時の目的の第一は、自分のそばに置くためだったということだ。まずは自分のそばに置くことが目的だった。イエスのそばにいたからこそ、その後そこから出て行く力と勇気が与えられたのだと思う。
ヨハネの福音書のイエスの最初の言葉は「何を求めているのか」という言葉だった。弟子たちはそれぞれにいろんな求めがあったことだろうが、その中でイエスはナタナエルに対する答えのところで、「もっと偉大なことをあなたは見ることになる、天が開いて神の天使たちが人の子の上にのぼりおりするのを見ることになる」と言っている。私たちはそれぞれにいろんなものを求めて教会に来ている。イエスの下に来ている。しかしイエスは私たちの求めているもの以上の、もっと偉大なことを見せてくれようとしているのだろう。私たちが初めて教会に来たときに何を求めてきたか、そして今何を見せられ何を与えられているだろうか。
新しい年も、イエスにしっかりと見つめられながら、イエスの下にとどまって行きたいと思う。イエスの言葉を聞くことを大事にし、礼拝を大事にして行きたいと思う。
弟子たちがそうであったように、私たちもきっとそれぞれにいろんな務めを任せようとしているのだと思う。イエスが私たちに任せたいと思っている務めはなんだろうか。そのことも聞いていこう。そしてその務めを果たしていこう。来て見なさい、と言えるようになりたいと思う。そこでイエスと出会える、そんな教会となっていきたい。何よりも私たちがここでイエスと出会っていこう。私たちを見つめているイエスの視線を感じて生きていきたいと思う。