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礼拝メッセージより
説教題:「神の僕として」 2004年12月12日
聖書:ペトロ手紙一 3章1-7節
善を行って
妻への忠告、というようにも見える。当時教会には異教徒の男性と結婚している女性がいた。女性は夫の下では大した権利もなかった。そもそも女性は人口の中にも入れてもらないような時代だったらしい。しかもこの手紙の宛先は、1:1にあるようにパレスチナから離れて仮住まいをしている人たちである。そこでは女であるということ、よそからきたものであるということによっていろんな苦しみを背負って生きていた人たちが教会に大勢いたのだろう。
そんな妻たちに向かってこの手紙は、自分の夫に従いなさいという。御言葉を信じない夫に対しても従いなさいというのだ。そしてそれはその無言の行いによって夫が信仰に導かれるためだと。
同じように、という言葉が1節にある。その前の2章では、召使いたちに対して語られている。そこでもやはり主人に従いなさい、善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にも従いなさいといっている。そんなことを聞くとそれでいいのか、ただ黙って従うだけでは駄目なのではないかと思ってしまう。
しかしそれと同じように、妻たちには自分の夫に従いなさいというのだ。
なんだかこれでは、自分達が弱い立場にいることをすっかりあきらめて、世の中の秩序に迎合して生きて行きなさい、という風に言っているかのようにも聞こえる。
キリストに倣う
おかしな主人は糾弾してしかるべきではないかと思ってしまう。おかしな夫には、妻を大事にしなさいと忠告してもらうか、別れるかした方がいいのではないかと思ってしまう。しかしこの手紙では、不当な苦しみを受けても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことですというのだ。自分が悪いことをしてないのに苦しむことがあっても、それを耐えることは神の御心に適うことだなんていうのだ。そしてそれはキリストがそうやって苦しまれたから、苦しみを耐えて受けられた、そのキリストに倣うことなのだというのだ。今こんなことを聞くと、なんだかただのあきらめじゃないかとさえ思える。
実際には召使いたちが主人のもとから自由に離れることも出来なかったのだろうし、妻の意志で夫と別れることも難しかったのではないかと思う。召使いも妻もそんないろんな不条理を背負わされて生きていたのだと思う。そしてその不条理な社会の仕組みを覆すほどの力と、それなりの可能性があるのならばそこに賭けることもできたかもしれないが、きっとそんな可能性もほとんどなく、ただ耐えるしか、あきらめるしかなかったというのが現実なんだろうと思う。
しかしこの手紙では、そこで黙って耐え忍ぶことがとても尊いことである、それはキリストと同じ苦しみにあっているのだというのだ。不条理な苦しみを受けて人生をあきらめるしかないような状況の中にいる者に対して、その苦しみを積極的に認めて賞賛しているかのように聞こえる。
そんな不条理な社会をなんとかして改めなさい、と言われてもどうにもならない世の中だったのだと思う。そんな時にどうにかしろ、力ずくでその社会を変革しろなんてほとんど出来もしないことを言われても余計苦しみが増えるばかりだったに違いない。しかしこの手紙では、あなたたちのその不条理な苦しみはキリストの苦しみに繋がっているのだ、そこで神を見上げて苦しみに耐えて純真な生活をすることはとても尊いことだ、と言う。
苦しんでいることを否定するのではなく肯定している、今の生き方を徹底的に肯定している。そしてそれこそが周りの者を信仰へと導くことになると言っている。
教会はそんな風に不条理な苦しみを受けている者たちが集まってくる所だったのだ。キリストを信じれば苦しみがなくなる、何でもうまくいく、なんてことはない。苦しみをなくしてくれと祈ればいつもなくなるのがキリスト教ではないだろう。もしそうならこの手紙も、主人や夫がいい人間になるように、苦しみがなくなるように祈りなさい、と書いているだろう。しかしこの手紙はそんなことは書いていない。祈れば苦しみがなくなるとは書いていない。苦しみを忍び、神を畏れて純真な生活をしなさいというのだ。苦しみを耐え忍ぶことが神の御心に適うことだ、と言うのだ。
神は私たちの苦しみを取り去るという仕方ではなくて、苦しみを耐え忍ぶ力を与えるという仕方で私たちを支えてくれているのだと思う。苦しみがなくなるのは確かにうれしい。しかし次の苦しみがいつやってくるかと考えるとおちおち夜も眠れない。しかし苦しみに耐える力を持っているならば、それを乗り越える術を知っているならば、いつ苦しみがやってきても何とかなる。苦しみを耐え、乗り越える術を私たちに教える、そんな仕方で神さまは私たちを支えてくれている。イエス・キリストはその模範を私たちに見せてくれている。私たちがいわれのない苦しみにあうとき、それはキリストの歩んだ、その同じ道を、キリストについてキリストの後を歩んでいるようなものだということだ。
だから私たちはそこで悪に対して悪に報いるのではなく、善をもって悪に報いるように言われている。
この手紙は、召使いたちと妻たちへ語りかける。夫に対しては申し訳程度に少し出てくるだけだ。手紙の著者は不条理に苦しんでいる者に専ら関心を持っているようだ。苦しんでいる者たちのことが気になって仕方がないかのようだ。そして教会はまさにそんな者たちが集められている場所だったのだろう。教会はそんな苦しみを一緒になって担っていく、一緒に苦しんでいく所なんだろうと思う。教会は、聖書や教会についての知識をひけらかす場所ではない。みんなが背負っているいろんな苦しみや悩みを出し合い、聞き合い、祈り合う、そしてそこで一緒に神の言葉を聞いていくところだ。その苦しみを聞いて私たちは何と答えるのか。それはキリストに倣うことなのだから忍びなさいと言うのか。そんなことはとても言えないだろう。そんな他人事のようなことは言えない。私たちはその苦しみの言葉を聞いて受け止めるしかないのだろうと思う。しかし分かち合いの時間はまさにそのためにある。そこから私たちのなすべきことがきっと見えてくるのだと思う。
苦しみの先に歩いているキリストを一緒に見ていきたい。そして苦しみ者と共に一緒に生きていきたい。