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礼拝メッセージより
説教題:「分け隔て」 2004年12月5日
聖書:ガラテヤの信徒への手紙 3章26-29節
服装
少し前にプロ野球の新規参入の話しがあった。二つの会社が参入しようとしたいということで、どうするかということで公聴会だったかを開いて話しを聞いて決めようとしていた。そこで二つの会社の社長などが話しを聞かれたときに、一方の会社はスーツにネクタイを着ていたが、もう一つはネクタイもしめてなかったというようなことが話題になっていた。その格好が気に入らない、きちんとネクタイを締めないような人間は、人間としてもきちんとしていないというようなことを言っていた人もいたようだ。
結構人は外見で人を判断するようで、スーツにネクタイだと立派な人に見えるという人が多いらしい。誰でもネクタイを締めたら立派な人間になるかというとそんなことがあるわけないこと位は誰でも知っているのに、それでもついつい服装とか肩書き、そういうもので人を判断することが多いようだ。最近では空き巣は昼間住宅街をスーツにネクタイを締めてアタッシュケースを持っていたりするそうだから外見で人を判断するのは危うい。
しかしどうも私たちは服装や外見や肩書きで人を判断する傾向にある。そして一方をいい人、もう一方を悪い人というふうに分けたがるところがある。ガラテヤの教会にもいろんな人が来ていたようだが、その教会あなたはあっち、わたしはこっちと何かと分けて考えるようなところがあったらしい。ここにあるように、ユダヤ人とギリシア人、奴隷と自由な身分の者、男と女、そんな風に中身ではなくまずその人がどういう人かということを外見で見るという傾向が根本的にあったらしい。
イエス・キリストを信じて神の子とされた、同じ神の子同士なのだということは根本的なことではなくて、神の子とされているけれども、私たちはユダヤ人、彼らはギリシア人、という風に、神の子とされていることよりも、ユダヤ人かギリシア人かということの方が大事なことになっていたらしい。同じ神の子とされているけれど、それよりも男か女かということの方に重きを置いていたらしいのだ。だからいろんな場面で、ギリシア人のくせに何を言うかとか、女のくせに何を偉そうなことを言うかというようなことがあったのだろう。だからこの手紙を書いたパウロは、あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです、なんてことを言っているのだろう。キリスト・イエスに結ばれていることこそが一番に大事なことである、そうして誰もが同じ神の子とされているというこそが教会の中での最も根本的な人間関係なのだということだろう。そしてそれはキリストを着ているからだというのだ。バプテスマを受けてキリストに結ばれているものはみんなキリストを着ているというのだ。
どんな服を着ているかということで人を区別し、分け隔てをすることが教会にもある。けれども教会の中の者は皆同じキリストを着ているという点でみんなつながっているというのだ。教会にもいろんな人種、いろんな身分の者、男も女もいた。そんな違いはもちろんあるけれども、キリストを着ているという点ではみんな同じ、その点でみんなつながっているというのだ。身分とか貧富の差でそれぞれいろんな服を着て教会に集まっていたのだろう。しかしバプテスマの時には当時もみんな同じ白いガウンを着たそうだ。そんな風にキリストにつながっているということでみんなつながっているというのだ。そのキリストにつながっていることで、みんながキリストにつながっているということで教会は一つなのだ。みんなが同じ顔形になるとか、みんなが同じ服装になるとか、みんなが同じ考えになるというふうに、みんなが同じになることで、あるいは違いをなくすことで一つになるというのではなく、キリストに結ばれることで、キリストに繋がることで、みんなが結ばれている、みんなが繋がっている、そういうことで一つになのだというのだ。木の幹からいっぱい枝が出ているように、キリストという幹にいっぱい枝が生えているように、教会員は枝のようにキリストに繋がっていることで大きな一本の木となっているということだろう。
一つ
ユダヤ人であること、ギリシア人であることをやめて教会員になれというのではない。男や女であることをやめてキリスト人になれというのでもない。それぞれに違いをもっていながら、その違いを認め合いつつ同じ神に繋がっているということだ。
問題はそこなんだろう。同じなら認めやすい。特に日本の教育は同じであることを目指して違いを排除するようなところがある。社会全体がそのような空気があるから教育もそうなっていくのだろうけれども、兎に角違いを認めていくということがとても下手だ。最初に言った、ネクタイを締めるだの締めないだのということもそうだろう。どこかの議会でもスーツにネクタイという格好でないと議場に入れないようにしたとかいう話しがあった。議会は話し合う場所なんだから、話し合うために支障があるなら問題だけれども、何もスーツにネクタイじゃないといけないなんて理由は何もないと思うがどうだろうか。自分達は一般人とは違う、人の上に立つ特別な立派な人間なんだという気持ちに浸っていたいからだろうとは思うけど。
そして教会にも同じような雰囲気がきっとある。教会はみんなが神さまから呼び集められているところ、神を礼拝するところだ。そこでどんな格好じゃないといけないなんてことはないだろう。なのに同じような服装になってしまうとすると、そのことの方が問題な気がする。特に牧師はなんだか同じような格好じゃないといけないような雰囲気になっている。そしていつしかなんだかそれなりに立派な格好じゃないと教会に来てはいけないかのような雰囲気をつくってしまっている、と思う。
あるいは教会の中では、礼拝の時には神妙にしてないといけなくて、げらげら笑ってはいけないような雰囲気がある。あるいは反対に、クリスチャンたるもの嘆いてはいけない、愚痴をいってはいけない、いつも感謝してないといけない、神を信じているんだから何があっても平気、というような振りをしてないといけないような面がある。
クリスチャンて何なのか。決まった形や格好があるのか。決まった考え方や感じ方、決まった振るまいがあるのか。そんなのないはずだ。いろんな人、あらゆる人を神は招いている。教会を通して、教会へ招くという仕方で、神はあらゆる人を招いているのだと思う。でもその門を狭くしている、決まった服装の、決まった顔の、決まった振る舞いをする人間だけに限定してしまっているのは教会なのだろう。教会にいる私たちなのだろう。私たちはもっともっと門を広くしないといけない。いろんな人を受け入れるのだという決意をしないといけない。日本人だ、何人だ、何の仕事をしている、どんな経歴だ、家族はどんな人か、いろんなことで人を見る目が変わってしまい、接し方も変わってしまう私たちだ。しかし神に愛されている者であるということから一人一人を見ていくようにしないといけないのだと思う。
誰をも同じように見て、同じように接することはきっとできない。やっぱり好き嫌いもある。いろんな偏見も、差別する心もある。だからこそ、私たちは嫌だと思うような人を余計に大事にし、何でこんな人が教会に来るのかと思うような人に余計に親切にする位が丁度良いのだと思う。
私たちはキリストというコートを着ているようなものだ。全てを包み込むキリストというコートを着ている。そのコートを着ていることでみんなキリストと繋がっていることで一つなのだ。あいつは外国人だから、あいつは女だから、あいつはあんなことしているから、というのはそのキリストというコートを脱がせてしまうことであり、そして自分は日本人だ、男だ、なんてことを言い出すのは、自分が着ているキリストを脱いでしまっているということだろう。
しっかりとキリストを着ていこう。そして目の前にいる人に対しては、この人を神はが愛しているのだということをしっかりと見ていこう。