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礼拝メッセージより
説教題:「差別」 2004年11月28日
聖書:ヤコブの手紙 2章1-13節
差別
人間を差別してはいけないということになっている、というかそう聞かされてきた。誰もが平等に暮らせる社会であることが望ましいと思っているだろう。日本にも昔は士農工商という身分制度があった。戦争までは貴族とか華族とかいうのがあって身分差別も残っていたが戦後はみんな平等になった。という風に学校で習ってきたように思う。
でも現実はどうもそうではないらしい。相変わらずいろんな差別がある。
一つの杯から
この手紙では、あなたがたの集まりに、つまり教会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入ってきて、また汚らしい服装の貧しい人も入って来たとして、立派な身なりの人には、どうぞこちらにお掛け下さいと丁重に挨拶して、貧しい人には、そこに立っているか、私の足下に座るかしていなさい、と言ったらあなたは人を差別している、誤ったことをしているなんてことをいう。教会の中でここまで露骨な差別をしていたということなんだろう。
差別してはいけないと思っている人間が差別をしていないというわけではない。もちろん教会に来たら差別がないとか、クリスチャンは差別しないとかいうわけでもない。
教会でも昔から差別があった。ヤコブの手紙の中にも書いているように、貧しい人と金持ちの人が教会の中にいた。当時は身分的な違いが貧富の差となっていたみたいで、いろんな身分の人が同じ教会の中にいたわけだ。キリストを信じるようになって、キリストを第一として生きていこうと決意していたはずなのに、そしてキリスト自身が貧しい者や差別されている者を大事にして、そういう人の立場に立っていた、そのキリストに従っていこうと決意してバプテスマを受けたはずなのに、そして人を分け隔てしてはいけないと聞いてはいながら、昔から持っている人を区別する、差別する見方はなかなかなくならないものがあったようだ。
今教会では主の晩餐の杯を一人一人別々の杯にしている。長年そうしているとなんだかそれが当たり前になっている。でもそれは聖書に忠実なやり方ではない。
マルコによる福音書14章22節以下のところでは、
『一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』
とあるように、みんな同じ杯から飲んでいる。何でも聖書と同じにしなければいけないというわけでもないし、あるいは衛生的には分けた方が良いのだろう。けれども聞くところによると、昔は教会でも一つの杯から飲んでいたというのだ。だけど部落の人が教会に来るようになって、教会員となるということで同じ杯から飲みたくないということで別々の杯になったそうだ。
教会だからといって差別がないとか、教会に来ている人間は差別しないとかいうことではない。つまり私たち自身の中にも差別心がないかということそうではないということだ。私は差別してないと思うかもしれないが、本当に差別する心がないかどうかと問いかけたときに差別心のかけらもないと言う人はきっといないだろうと思う。
今の教会はどうなのだろうか。差別はなくなったのだろうか。立派な服装をしている人と汚らしい服装の人と、このヤコブの手紙のようにまるで違う接し方をしているというようなことはないだろうか。
あるいは顔見知りの人には挨拶するけれども、初めて見る人には知らん顔するようなことはないだろうか。あるいは特別な才能を持っている人とか、地位や名誉がある人とか有名人は大事にするけれども、普通の人には冷たく接するなんてことがないだろうか。
多分誰だってあるだろうと思う。何にもない、誰に対しても同じように接しているなんて人はいないだろう。誰にも一言も挨拶もしない、誰に対しても仏頂面という人ならばみんな同じに接していると言えるかもしれないが、そうでないならやっぱりどこか差別するようなところがあると思う。
なぜ
なぜ金持ちや身なりのいい人ばかりを大事にする気持ちがあるのだろうか。確かにいっぱいお金を持っている人を大事にして教会員になってくれたら、いっぱい献金してくれるだろうし、そうしたら教会もいつもいつも教会にはお金がないと言わなくてよくなるし、そうなったら自分もそれまでのように無理して献金しなくてもよくなる、赤字補填献金なんてしなくてもよくなるわけだ。
同じようにいろんな才能を持っている人が教会員になれば、あれもこれもやってくれるだろうし、そうしたらその分自分のやることも減らすことが出来て楽になる、全部任せて何もしなくてよくなるわけだ。
あるいは地位や権力を持った人と仲良くなっていたら、何かあったときには助けてくれるかもしれないと思う。
だからお金持ちや才能を持っている人や地位や権力を持っている人は大事にしとかないと、丁重に扱わないといけないと思う。
でもそれは結局は自分が何かしてもらいたいためにしているにすぎないことだ。だから何の役にも立たないような人、自分にとって面倒なだけの人のことは放っておくか、なるべく関わりを持たないでいようということになってしまうのではないか。
そういう風になにかをしてもらいたい、という気持ちがあるから、お金持ちや才能をいっぱい持っているひとを大事にするということがあるのではないかと思う。もちろんいろいろしてくれたらうれしい。でもけれども本当は受けるよりも与える方が幸いなのだ。受けることばかりを考えてしまうから、相手が何者なのか、どんな者を持っているかによって接し方が変わってくる。しかし自分が与えるということを考えるならば、相手が何を持っているかどうかは関係ない。問題は相手が受けてくれるかどうかというだけだ。
与えていくとか仕えていくなんて面倒なことだし、それこそ得にならないことだ。けれども本当はそれこそが一番の幸いなことなのだ。
イエス・キリストは私たちを愛してくれている。イエス・キリストは何の得があって私たちを愛してくれているのだろう。きっと何もない。何もないのに愛されている。何の価値もないのに愛されている。
何でこんな私たちを愛するのだろうかと思う。それはイエス・キリストにとって何もない私たちを愛することが幸いな、幸せなことだから、だから愛しているのではないかと思う。イエス・キリストが私たちをそのように愛してくれている、だから私たちもそのように何の得にもならない者を愛していきたいと思う。