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礼拝メッセージより
説教題:「ここに愛がある」 2004年11月21日
聖書:ヨハネの手紙一 4章7-21節
愛すること
愛することってのは何だかとってもかっこいい言葉になっている。愛してます、ってのは若い恋人たちが綺麗な場所にデートに行って、着飾っている相手に言う言葉みたいになっている。
でも本当は愛するってのはとても大変な、面倒なことなのだと思う。立派な人を大事にするのなら、自分に好意を持ってくれている人を大事にするのなら比較的簡単なことだろう。けれども世の中そんな人ばかりではないから余計大変だ。
神から
愛は神から出た、とこの手紙は告げる。元々人間は自己中心的なものしか持っていないらしい。自分さえよければ、ということがこの世の中まかり通っている。独裁者は自分に都合が良い国の体制を何とか守ろうとするけれども、独裁者じゃなくても多くの国の権力者も多かれ少なかれ自分の権力や儲けをなくさないようにしたいという気持ちをいっぱい持っているような気がする。そして政治家だけじゃなくて役人も力のある業者も、自分達の生活が脅かされないように、今の仕組みが自分達に都合のいいものだったらその仕組みを何とか続けようとしているような気がする。その結果が、国や地方公共団体の借金が何百兆円なんてことになっているのだろうと思う。
そして自分中心、自分勝手なのは何も権力者に限ったことではなくて、私たちも同じなんだろう。自分の勝手が出来るところではその時の気分で好き放題をしてしまう。親になると子どもに対しては勝手なことすることが多いなと思う。自分のいたずらは笑って済ませといて、子どものいたずらには怒りとばしたりしてしまう。
人間てのはそんな風に自己中心、自分勝手というのが根底にあるみたいだ。しかし聖書は繰り返し繰り返し愛しなさい、愛し合いなさいという。もともと愛がない、愛を持っていない私たちに向かって愛そう、愛し合おうというのだ。そしてそれは愛が神から出ているからだというのだ。そして私たちは神から生まれ神を知っている、だから愛し合おうというのだ。神はひとり子を私たちのために世に遣わした、私たちの罪を償ういけにえとして遣わした、それほどに神から愛されている私たちなのだ。だから私たちも互いに愛し合おうというのだ。神に愛されているから私たちも互いに愛し合おうというのだ。ただ愛しなさいと命令されたからでも、その命令を守らないと罰せられるからではない、愛されているという喜びがあるから、神から愛をもらっているから私たちも愛することができるはずじゃないか、ということだろう。
決意
そのように愛するというのは自分中心という自然な思いとは別の思いを持つということだ。私たちには自然に愛するという思いがわき起こってくるというようなことはほとんどないような気がする。愛するというのは自然にわき起こってくる感情ではなくて、意志、決意なのだと思う。
愛するってことは面倒くさいことだ。愛するって言うだけなら簡単だが、本当に愛するってことは行動を起こすことだろう。相手のために具体的に自分がいろんなことをやっていくことだ。いろいろやっていくというのはとってもしんどいことである。自分の時間や労力、そしてお金を相手のために献げていくこと、それは自分の時間が減り、自分が疲れ、自分が貧しくなることだ。しかしそれこそが愛するということであって、あなたのこと好きよというのとは違う。だからこそまた愛するというのは自然にできることではなく自分がそうしていくと決めること、決意して実行していくことなのだと思う。
恐れ
しかし愛そうと思ってもなかなか愛せないのも私たちの有り様だ。私たちはいろんな恐れがある。こんな私ではやっぱりいけないのではないか、こんな私では受け入れて貰えないのでは、認めて貰えないのではというような不安がある。漠然とした不安というか恐れ、そんなのがあると自分を責めてしまうばかりで、そうすると自分のことばかりになってしまう。頭の中は自分のことばかりという自分中心になってしまう。そうすると愛するということからどんんどん離れてしまう。
また相手によって愛せない気持ちになることもある。愛する相手は生身の人間なのだ。いろんな罪も汚れも破れも持っている人間なのだ。自分勝手な面をいっぱい持っている人間、それを愛するということはなかなか難しいことでもある。それはとても大変なことでもある。しかし私たち自身こそ、どうしようもない人間でありながら愛され赦されている。だから私たちも愛そうという決意を持って愛し合っていきたいと思う。
神は私たちのあらゆる罪を赦されている。イエスの十字架の死によって私たちのあらゆる罪は赦されている。赦されているから自分中心になるというわけではなく、赦されているから赦された者として、それを感謝しつつ生きること、今度は赦す者になっていくこと、愛する者になっていくこと、この手紙でもそうしようじゃないか、愛し合おうじゃないかと言っているのだ。
バプテスマ
今日はバプテスマがある。一人の人がイエスを救い主と信じるようになって良かった、というだけではない。教会にとっては家族がひとり増えたようなものである。愛する家族が一人増えたようなものだ。教会員になったらあれもしてもらいたい、これもしてもらいたいと思っているかもしれないが、それよりも先ず愛して欲しいと思う。みんなが積極的にいろいろしてたら、新しい人は自然といろんなことをするようになり、何もしてなかったら何もしないだろうと思う。だから教会の人は、この機会に自分がバプテスマを受けたときのことを思いだして、もう一度初心に戻ってやっていくという気持ちを持ったらいいんじゃないかと思う。自分がどれほど愛してきたか、みんなを大事にしてきたか、特にいろんな不安を抱えて新しく教会に来ている人たちを大事にしてきたかを、この機会にもう一度吟味したらいいと思う。そしてもう一度新しい人と一緒にやり始めたらいいと思う。イエスも、先の者があとになり、後の者が先になる、と言っているように、一番新しい人が一番先を行っている。だから古くからいる私たちはその新しい人について行きたいと思う。神さまのすばらしさを一番知っているのは、一番新しい人なんだと思う。
全う
私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちの内にとどまって下さり、神の愛が私たちの内で全うされている、という。愛する者の内に神はいてくれるという。ついつい評価するような、裁くような、あるいは見下すような目で周りの人を見てしまうことが多い。そんな目で周りを見ていると、あいつはどうだ、こいつはこうだと文句と不満ばかりが出てくる。教会の中が、そんな評価や裁きという視線で充満してたら教会はきっと空っぽになって、そこには神もいなくなってしまうだろう。愛する心を私たちが持つなら、愛するという決意をするなら、人も集まってくるだろうし、そこは私たちにとっても新しい人たちにとっても安心できる居場所になるだろう。
愛し合おうではないか、それが私たちにふさわしい生き方だ、この手紙はそう語る。