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礼拝メッセージより
説教題:「光に照らされる罪人」 2004年11月14日
聖書:ヨハネの手紙一 1章
命の言
聖書の最初にある創世記の一番初めのところに、初めに神は天地を創造されたと書いてある。神はこの世の初めから、この世が始まる前からいた、そんな神である。その神が、あるいは神の人となったのがイエス・キリストである。イエス・キリストは命の言葉、すなわち神の言葉を告げてくれた。この手紙はそのことを手紙の最初に語る。ヨハネによる福音書の1章のところでは、このキリストのことを言という言い方をしているが、ここでも命の言という言い方をしている。私たちが聞いて、見て、触れた、そのキリストのことをあなたたちに伝えるというのだ。実際に神が肉体を持ってこの世に現れてくれた、そのことを伝えるというのだ。そしてそれは父なる神と子であるイエス・キリストとの交わりを持っているという自分達との交わりを持って欲しいということだ。イエス・キリストを知って欲しい、私たちのために肉体を持ってこの世に来て下さった、私たちのことを愛し救うために人となってくれた、そんな神のことを知って、その交わりの中に加わって欲しいということだ。そしてそれは私たちの喜びが満ちあふれるようになるためであるという。あなたたちがイエス・キリストを信じてイエス・キリストとの交わりの中に入ること、それはあなたたちの喜びであるというだけではなくて、私たちの喜びでもある。神を、イエス・キリストを中心とするこの交わりにあなたが加わることは、私たちの喜びであるということは、結局は交わり全体の喜びであるということだろう。
もうすぐバプテスマをする予定であるが、それはその人個人の問題ではなくて、私たちみんなの喜びなのだ。誰かが試験に合格した時におめでとうというが、その時は結局は個人の問題なんだからおめでとうございます、よくやりました、ということなんだろうけれども、バプテスマを受けて教会員に加わるということは、ただおめでとうということではなくて、神を中心とする私たちの交わり全体の喜びなのだと思う。喜びに満ちあふれることなのだ。ただおめでとうというのとは違うように思うのだが、どうなのだろうか。
光
続いて手紙は神とはどういうものかについて語る。神は光であり、闇がまったくないという。光と闇とは全く相容れないものだ。光がまったくないところを闇というわけで、少しでも光があればそこは闇ではなくなる。
停電でもおきないと暗闇というのはなかなか経験できないが、その時でもライターの火をともせば、そこは一瞬にして暗闇ではなくなる。神の光というのもきっとそんな光なんだろうと思う。どんな暗闇でも、神の光がポッとともれば一瞬にして暗闇ではなくなる、そんな光に私たちは照らされている。
しかしその光によって私たちは自分の本当の姿を映し出される。そしてそこに映し出される私たちの姿は罪人であるという姿である。しかしその光は罪を明らかにするだけの光ではなくて、その罪を清める、イエス・キリストの血によって罪を清める、赦す、そういう光なのだ。
だから自分には罪がない、あるいは自分の罪は周りの人に比べたら大したことはない、なんて言う人は本当はこの光に照らされてはいないということなんだろう。あるいは照らされているのに、自らを欺いており、真理がない状態なのだ。
しかし自分の罪を公に言い表すなら、神はその罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくれる、という。
私たちは誰もがそんな罪を持っている、その罪がないという者は神を偽り者とすることであって、神の言葉は私たちの内にないという。神の言葉が私たちの内にあるときには、私たちは自分が罪人であることを自覚することになるということだ。
罪人
私たちはそんな罪人である。教会も罪人同士の集まりである。そんな当たり前のことがなかなか分からない。よく忘れる。
私たちは何でも比べたがり、その罪の大きさまで比べてしまう。あの人の罪に比べたら私の方がまだましだ、あるいは逆に私の罪は誰よりも重い、なんて思ってしまう。罪が小さい方が、少ない方がいいに決まっていると思う。そっちの方が威張れると思う。
ルカによる福音書の7章36節以下の所に罪深い女の話しが出てくる。
7:36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。 7:37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、 7:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。 7:39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。 7:40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。 7:41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。 7:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」 7:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。 7:44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。 7:45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。 7:46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。 7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 7:48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。 7:49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。 7:50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
赦されることと愛することは比例するということらしい。私の罪は大したことはない、と思っている人は少ししか赦されてないから愛することは少ない、だけど多くの罪を赦してもらっている人は多く愛するというわけだ。罪の重さや大きさが問題ではない。それを赦してもらうことでどれほど愛するかが問題なのだ。
告白
ヨハネの手紙が語るように、罪を告白するなら、神は私たちの罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくれるのだ。罪を告白し、それを赦すという声を聞く、その繰り返しが私たちの人生なのかもしれない。礼拝に来るのは、その神の声を繰り返し聞くため、確認するためのものでもあるのだろう。教会が十字架をかかげているのは、この十字架にイエスがつけられ死んだことで私たち全ての、あらゆる罪が赦されているからなのだ。
マルコによる福音書2章17節でイエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言った。罪人である私たちを招くためにイエスは来てくれた。私たちの罪を明らかにするために、そしてその罪を赦すために、神の光は私たちを照らしている。
私たち自身が自分の罪をなくすことはできない、減らすこともとても難しいことだろう。
大胆に罪を犯し、大胆に赦してもらおうと言った人がいた。昨日もこんな罪を犯した、今日もこんな罪を犯した、私はなんと駄目な人間か、と思う。なんとだらしない人間かと思う。けれどもそこでおわるのではなくて、それなのに私は赦されている、こんな罪深い者をも赦されているいう、そこまで考えたいと思う。そしてさらに今度は赦された分だけ愛して生きたいと思う。大胆に罪を犯し、大胆に赦してもらい、大胆に愛して生きる、そんな者になりたいと思う。