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礼拝メッセージより
説教題:「恵みの管理者」 2004年11月7日
聖書:ペトロの手紙 4章1-11節
御心
教会に来てなかった人が教会に来るようになると変なことを言われることがある。あいつは何様なのか、そんな柄でもない、教会に行くだと、笑わせるな、ってなことになることがよくある。キリスト教会が出来て間もないころにもそんなことがよくあったらしい。キリストを信じるようになって、キリストの言葉を聞いて生きていくことで、昔とはちがう生き方になることもある。この手紙の中にも、かつては、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、偶像礼拝などにふけっていたのに、それにふけらなくなったことを不審に思って、そのことをそしる人がいたことが書かれている。また一緒にふざけようぜ、なんで一緒にやらないんだよ、というようなことだったのだろうか。
しかし初代の教会の人たちは、そんなことよりもキリストを信じて神に従う生き方を選び取ってきた。神の御心に従って生きることを決意してきた。それはそこに、他の何も物にも変えられない喜びを見つけたからだと思う。
神の御心に従う。それは欲望に従うのではなく、神の声を聞いて生きること。そのために、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈ることが大事。祈ることで神の声を聞いていく、そして自分を振り返る。
そして何よりもまず、心を込めて愛し合いなさいと言われる。愛することが全てに優先する。教会に愛がない、と言われて久しい。愛することよりも他の何かをすること、何かを成し遂げることが優先されているような気がする。何かをなす者が偉くなって、自分がどれほどのことが出来るか、どれほどのことをやってきたか、あるいはどれほどの知識を持っているか、そんなことを比べて、競争してきたのではないか。何もできないから、何もしてないから、だから教会の中では肩身の狭い思いをしているなら、それはおかしなことだ。
あるいはまた愛することよりも愛されることを求めることが多かったのではないか。与えるよりも受けることを求めてきた。教会でも自分が誰かのために何かをする、いろんな奉仕をするよりも、誰かがしてほしいと思うことが多かったのではないか。新しく来た人のために気を遣うことはしないで、自分がまわりから気を遣って欲しいと求めることが多かったのではないか。そうやって自分が誰かを愛する、誰かのために何かをすることよりも、自分がまわりから愛されたい大事にされたいと求めることが多かったのではないか。要求がいっぱいあるとそれだけ不満が多くなるのが常だ。
夜回りをする教師のことが時々テレビに出てくる。最近はテレビドラマにもなるらしい。その先生が、ずっとひきこもっていたり、生きるのが辛くて死にたいというような相談をいっぱい受けている様子をテレビで見た。子ども達はわかって欲しいという思いをいっぱい持っているみたいだった。自分の苦しさや悩みをわかって欲しい、なのに分かって貰えないということでどんどん苦しくなっているみたいだ。分かってくれる人や自分の話しをじっくりと聞いてくれる人が身近にいないということでその先生の所へ全国から電話があるそうだ。その先生が子ども達の話しを聞いた後に、子ども達に何度か言っていたのが、誰かの役に立つことをやってみろ、そしたら変わるぞ、ということだった。親の手伝いをやってみろ、やってみることで親の態度も変わるだろうし、そこで自分も変わってくるということだったと思う。案外それは当たっているんじゃないかと思う。
愛しなさい、愛し合いなさい、イエスもそう言ったしパウロも他の手紙でも繰り返し言われている。何よりもまず愛し合いなさい、この手紙でもそう言われている。私たちも夜回りの先生に相談する子ども達と同じように、自分のことを分かって欲しい、この大変さにみんな気付いて欲しい、この私のことを大事にして欲しい、そんな思いをいっぱい持っていて、そしてなかなかそうならない不満をいっぱい抱えているのではないかと思う。礼拝に来ても、私は説教を聞きたいから邪魔されたくない、うるさい子どもは邪魔だし、奉仕なんかしてたら全然聞けないと思う。いい話を聞いて満足して、そしてみんなから声をかけてもらって良い気持ちで帰りたい、そんな自分の要求ばかりになっているのではないか。その結果たどり着くのは、この教会には愛がない、ということなんだろうと思う。受付してたら説教を集中して聞けないし、奏楽するときには礼拝中緊張しっぱなしだし、おはなしの当番の時には何週間も前から悩むし、終わったら後悔ばかりだし、そんな大変なことしてられない、何もしないのが一番と思う。何もしないのが確かに一番楽だ。でも何もしないのは楽しくない。喜びがない。
何よりもまず愛し合いなさいとこの手紙は告げる。そしてそれぞれ授かっている賜物を生かして互いに仕えなさいという。教会ってのは愛し合うところなのだ。ただ愛されるところではなく愛するところ、愛するっていうのは愛してますっていうだけではなくて、賜物を生かして仕えていくということでもある。やってみろ、変わるぞということかもしれないと思う。人間は何のために生きているのかというと、誰かの役に立つために生きているというようなことをよく聞く。きっとその通りだろう。役に立つことで生きがいを感じるように出来ているのだろう。愛することで喜びを得ることができるように造られているんだと思う。そして愛するために、誰かの役に立つように私たちにはそれぞれ賜物が与えられている、仕えるために与えられている。
賜物
賜物、それは賜った物と書いてる通り、もらったもの、神からもらったもの。
教会ではよくあの人には音楽の賜物がある、説教の賜物がある、会計の賜物があるというふうに誰かの優れた所は神さまからの賜物なんだと言う。
反対に自分に対しては、私には音楽も説教も会計も賜物がない、というのが普通だ。他の人にはいっぱいあるように見えて、自分には何もないように見えるのが賜物、みたいな感じ。賜物ってなに。本当にないの?
確かに見るからにこれぞ賜物ですっていうような目立つ賜物を持っている人はそんなに多くはないかもしれない。他の誰も持っていないようなもの、誰にも負けないような才能が賜物であるのならば、私たちには何の賜物はない、と言いたくなってしまうのも無理はない。
けれども賜物ってそんな特別なものだけじゃないんじゃないの。神さまからもらったものだもの。私たちは神さまから何をもらっているのか。何ももらってない?この命も体も才能も、あるいは何も出来ないということも神さまからもらった賜物と言えるのかもしれない。
昔ある人が車いすに乗っている人の話をしていた。その車いすの人が駅の階段の下で上に上がれなくて困っていた。少し離れた所にヤンキーっぽい兄ちゃん達がいて自分のことに気付いてみんなで車いすごと階段の上に上げてくれたことがあったそうだ。その車いすの人が、私が彼らにその一瞬でも心の中にさわやかな風を吹かせることが出来たとするなら、私が生きている意味はあったと思う、と言っていたそうだ。
あれができる、これができるという賜物もあるが、あれもできない、これもできないというのも賜物かもしれない。
そんな賜物を活かしあって、用いあっていきなさいとこの手紙は告げる。
自分に与えられたものを与えていく、お互いに与えつつ、活かしあってあって生きるようにといろんな賜物を与えられているのだろう。たいした賜物ではないから、と神様に文句をいうこともできるだろうけど、そう言いつつ結局何もしない、何も与えないで握りしめていくと、と段々と腐っていくかもしれない。自分のできることをやっていくこと、あるいは自分にできないことをやってもらう、自分の強さも弱さもそこで出していく、そうやって与えたり受けたりすることで私たちの中に喜びや感謝が生まれてくる。
ちがってないと
みんなそれぞれの賜物をもらっている。それはみんなを活かすため、誰かを生かすためのもの。そしてみんなちがった物をもらっている。誰が一番優れているとかいうようなものではない。みんなが同じでもいけない、そして同じではいけないのだ。
昔キャンプか何かでどこかの牧師がこんな話しをしていた。近所の小川で子ども達と水遊びをしていた。そこでダムを造ることにした。石や砂利で水をせき止めてダムを造ろうとした。最初に大きな石を拾ってきて並べた。大きな石だけでは水は隙間を通っていくのでそこに砂利をおいていって水をせき止めた。その牧師は、ダムを造るには大きな石だけではできない、砂利だけでもできない、大きな石と砂利と両方あって初めてダムができる。大きな石も大事だし小さな砂利も大事なのだ。教会の中でも、この世の中でも大きな石も小さな砂利も大事なのだ。両方がないといけない。そんなことを言ってたような気がする。
私たちはそれぞれに賜物をもらっている。そしてその賜物を生かして、与えられた力に応じて奉仕していく、そこに教会が出来てくる、そしてそれは神が栄光を受けることになるというのだ。力に応じて出来ることを出来るだけやっていくのだ。出来ることを精一杯やっていくところに喜びがある。奉仕するための賜物を、それを生かして互いに喜ぶための賜物を私たちは与えられているのだ。
奉仕してみろ、変わるぞ、と言われているのかもしれない。