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礼拝メッセージより
説教題:「イエスの苦しみに与る」 2004年10月31日
聖書:ペトロの手紙 3章8-18節
報復
「目には目を、歯には歯を」というのが当たり前だと思うのが普通だろう。やられてもやり返さないなんて、そんなことできるわけないと思う。そうは思っても、相手がやたら強い相手だったらやり返せないかな。でも相手が弱かったら何倍にもして返しそうだ。実際、自分のこどもが何かしたときには何倍にもやっているような気もする。
目には目を、というのはハムラビ法典という古い法律にあるそうだが、旧約聖書にもある。目をやられたら同じように目に仕返ししろ、というような意味合いで使われることが多いけれども、本来はおなじもので償うように、ということでやられた以上の報復をしないように抑えるという意味合いの法律なんだそうだ。あるいはまた、いくら金持ちでも、金で何でも解決がつくというわけではなく同じもので償うように、金にものをいわせて自分が痛い思いをしないですむようなことのないように、というような法律だったそうだ。
目には目をなんて、そんなのはカビの生えそうな古くさい法律だと言いたいところだが、どうもそう簡単には言えそうにない。現代は戦いの連続だ。イスラエルとパレスチナの戦いにしても、やられたらやり返す、やられた以上にやり返す、と言ったようなことがある。目には目をで終わっていたらこんなにまでなることもなかったのではないかと思ってします。あるいはテロには屈しないというようなことから、こんどはやらればかりはいられない、やられる前にやっつけてしまえ、やられるそうだから、やられるかもしれないからやっつけてしまえ、というようなことになっている。なんだかハムラビ法典や旧約の時代の方が合理的なんではないかという気になる。
祝福
ところが新約では報復するな、なんてことを言っている。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いるなというのだ。それどころか祝福を祈りなさい、なんていうのだ。それってとんでもないという気がする。でもその後に、祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです、という言葉がある。あなたがたは祝福を受け継ぐために神に召された、祝福を受け継ぐために神から呼ばれたて教会へと集められているのだ、だから祝福を祈りなさい、誰に対しても、悪いことをしてくる者に対しても、侮辱するものに対しても祝福を祈りなさいというのだ。
祝福を受け継ぐために召された、なんて言われてもピンと来ないなあというのが実感ではないかと思う。
この前、八幡浜教会の按手礼式に行ってきた。按手礼って何だ?と思う人もいると思うが、珍しく朝早く起きて僕も八幡浜に向かう途中、僕も按手礼ってなんなんだろうと考えていた。バプテストでは、按手礼を受けたら何者かになるわけではない、それを受けたら一人前になるとか何かをできる資格を得るとかいうわけでもない。諮問会議というのもあったけれども、その会議でその人がその教会の牧師にふさわしいとか、按手礼を受けるにふさわしいとかを決めるわけでもないだろうし、実際八幡浜教会の資料には、按手礼の主体は教会であって、つまり按手礼をするというのを決めるのは教会であって、諮問会議は「祝福と愛による助言の場」であるという立場だった。それはそれでいいんだが、じゃ一体そこへ何をしに行くのか、やっぱり祝福を携えてというか、祝福を祈りにいくんだろうなと思った。
しかし祝福を祈りにとか携えてとか、なんともおこがましい話しだなと思った。こんな自分に祝福を祈るなんて、そんな柄じゃないし、神の祝福を携えて来ましたなんて言えるほど信仰深くもない、と思っていた。でもそんなことを考えながら松山から宇和島行きの列車に乗っていた。たまたま時間があって普通列車に乗ったのだが、なんとこれがディーゼルで一両編成だったのだが、その列車が八幡浜に着く少し前に、それは違うかもしれないと思った。祝福を祈るのはおこがましいしそんな資格もないことに変わりはないけれども、でも神さまの祝福ってのは僕個人が溜め込んでいるものでもないし、祈る人間の持っている信仰深さとか謙虚さとか、あるいは罪深さとか傲慢さとか、そんなものを超えて、与えられていくものじゃないのか、祈った人間によって祝福が多くなったり少なくなったりするようなものではなく、人間の思いを遙かに超えて、つまりちっぽけな人間のつたない祈りを通してでも、神の祝福は与えられていくのではないかと思った。そう思ってちょっとうれしくなって、安心して按手礼式に出席した。
あなたがたは祝福を受け継ぐために召された、と言われている。そんなおこがましいとおもうことのために私たちは召されているのだ。神の祝福をみんなに配っていくために召されているということだろう。大きな祝福を私たちは任されている、だから悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いるのではなく、祝福を祈りなさいと言われているのだ。
イエスに従う
そしてそれはイエスの生き様そのものだ。そうすることはイエスに従うことだ。イエスは悪に対して悪に報いなかった、それは私たちに対してイエスが報いなかったということだ。罪深い私たちに神は罰を与えることをせず、赦すことにしたのだ。私たちは罰を与えられて当然の者であった、なのに神はその罰をイエスが十字架で背負うことで私たちを赦すことにしたのだ。私たちはそうして赦されている。赦された者だから、赦しなさいというのだ。
人が赦せない思いになることがよくある。しかしそんな時私たちは自分が赦された者であることを忘れてしまっている。そんなことは棚の上の方にあげてしまって、すっかり忘れている。
イエスは、一万タラントンの借金を赦されたのに百デナリオンの借金を赦さなかった男の話をされたことがあった。6000億円の借金を帳消しにしてもらったのにそのすぐ後に、自分が貸した100万円を赦さなかったという話しだ。
やられたらやりかえせと思うとき、私たちは自分が赦された者であることをどこかに棚上げしているのではないかと思う。
またイエスは、人を裁くなといったときに、人の目にあるおが屑は見えるのにどうして自分の目の中の丸太に気が付かないのかと言ったことがあった。人の悪は本当によく見える。そしてその人の悪を糾弾しようとしたり報復しようとしたりする。悪い者は懲らしめを受けて当然、痛い目に遭って当然と思う。でも本当はそれをすると全部自分に返ってくる。本当は自分の方がよっぽどひどい悪人なのかもしれないのだ。
イエスは悪に対して悪に報いることはしなかった。私たちはそのイエスによって赦されて、イエスに従って生きるようにと招かれている。それはとても大変なことでもある。そもそも人にやさしくするということはエネルギーのいることだそうだ。だから疲れている時には誰でも不機嫌になる、と何かに書いてあった。優しくするというのはただその人がそういう性格だからということではなくて、その人がそれだけのエネルギーを持っていて、それだけのエネルギーを消費しているということなんだろう。愛するということも同じようにきっと相当なエネルギーのいることなんだろうと思う。不機嫌で知らん顔をしているのが一番楽なのだきっと。やられたらやり返すというのが精神的には一番楽なのかもしれない。
しかし私たちは神からやり返されなかったことで、赦されたことでここにいる。イエスが命を失うという膨大なエネルギーを使ってくれたことで赦されてここにいる。だから私たちもイエスに従って、イエスに倣っていくのだ。