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礼拝メッセージより
説教題:「種」 2004年10月24日
聖書:ペトロの手紙一 1章
聖なる者
このペトロの手紙は、バプテスマを受けた人のための手紙であるというような説もあるそうだ。キリストを信じることとは、キリストを信じて生きていくということとはどういうことなのか、そんなことを語っている手紙である。またこの手紙が書かれた当時は、キリスト教会に関わっているということでいろんな嫌がらせや迫害が起こるようになってきた時期なんだそうだ。今の日本でも、教会に行っているとか、神を信じている、キリストを信じているなんてのは、よっぽどの善人か聖人か、反対に人生に行き詰まっている人か、心や体が弱い人か、あるいは変わり者か、そんな風に思われているみたい。この手紙が書かれた当時はもっと大変な時代だったようだ。
当時は、ローマ帝国が地中海沿岸を支配しているような時だった。皇帝を神として拝まなければいけないというような時代であった。ユダヤ教は当時は社会的に認められていたそうで、唯一の神しか拝まない宗教であるということを認められていたそうだ。キリスト教会がユダヤ教の一派である、ということを自分から認め、周りからも認められたならば、皇帝を拝まなくても大丈夫だったそうだ。しかしキリスト教会はユダヤ教とは別物であるということになると、ユダヤ教でもないくせに皇帝も拝まない、キリストとかいうものが神で、皇帝よりもキリストの命令を聞くという帝国の命令を聞かない、危険分子であるという見られ方をしていたらしい。そこでいろんな嫌がらせや迫害にあっていたそうだ。命にかかわるような嫌がらせをうけるようなこともあったそうだ。
そんな時代にこの手紙は書かれた。手紙の冒頭で、この手紙の著者は、「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられたご計画に基づいて、霊によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。」と語る。あなたがたは聖なる者とされるために選ばれたというのだ。
聖なる者とされるために私たちは教会に導かれている、というわけだ。聖なる者、なんていうと何となく罪も汚れもない純粋な人間のような、綺麗な人間であるかのようなイメージをもつかもしれないがそうではない。聖なるとは、特別に分けておく、というような意味なんだそうだ。つまり、聖なる神の民とされるということ、神の子とされる、神の国の住人とされるということ、それが聖なる民とされるということなんだそうな。綺麗になるとか純粋になるとかいうことではなく、全然そうではない汚い罪深い者である者をも神の子としてくれているということ、それが聖なる者とされるということなんだ。聖なる者とされるなんて聞くと、そんな人間にはなれませんなんて思ってしまいそうだがそうではないのだ。自分の力でなれ、というのであれば確かになれはしない。けれども神がそうしてくれた、神がこの私たちを子どもとしてくれているということ、そのことで私たちは聖なる者とされているのだ。この手紙も、聖なる者となるに選ばれたではなく、聖なる者とされために選ばれたと言っている通りだ。
聖なる者として
そうやって聖なる者とされているから、どうやって生きていくのかというのを書いているのが13節以下である。ここでは聖なる者となれとまた言われている。聖なる者とされているから聖なる者となれというわけだが、そうであるためにどうするのかと言うと、「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みをひたすら待ち望みなさい」、「神を畏れて生活しなさい」、そして「清い心で深く愛し合いなさい」ということを言われている。どうしてそうするのかと言うと、23節「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた」からであるというのだ。朽ちることのない神の言葉によって新しく生まれているのだから、神を言葉をしっかりと聞いて、その神の言葉に根ざして生きなさいということだ。
喜び
どうしてそんなに神の言葉を聞いていけというのかというと、8節「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見ていなくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それはあたがたたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」と言われているように、喜びに満ちあふれているから、それが喜びだからそこに留まっていなさいということだ。
私たちは、教会に行くより何か他の所へ行った方がいいように思ったりする。神の言葉なんか聞くより好きな人と会っている方がうれしいと思うようなこともある。神の言葉よりも、いっぱいいろんな買い物をして、物が増えることも嬉しいと思い、美味しい物をいっぱい食べることも嬉しいと思う。それはもちろん楽しいし、うれしいことだ。でもそういうことでは得られない喜び、神の言葉を聞くことでないとないと喜べない喜び、そんなものがきっとある。
ルカによる福音書の15章11節以下の所には、イエスが語った放蕩息子のたとえが書かれている。兄は自分の生まれた家、親父と一緒に仕事している家よりも、楽しい生活があると思って生きている親父から遺産をもらって家を出て行った。しばらくはその遺産を使って面白おかしく過ごしていたが、お金が尽きるとそこには惨めな生活が待っているだけだった。結局は自分の家で暮らすことが幸せだった、そこに喜びがあったということに気付いたというようなことが書かれている。
自分の知らないどこかに行けばそこに幸せが待っている、喜びが待っているような気持ちがある。あるいは、あの欲しい物を手に入れたら、お金持ちになったら、幸せになれるような気持ちがある。礼拝に来て牧師のつまらん話聞くより、どこかに遊びに行った方が楽しいし、充実しているのではないかと思う気持ちもある。聖書なんか読むより、テレビ見てた方が楽しいと思う。確かに楽しいし嬉しい。
けれどもそういうことでは手に入れられない、お金持ちになっても、いろんなものを手に入れても、得られない喜びというものがある、神の言葉を聞くことでしか得られない喜び、安心、そんなものがある、このペトロの手紙はそのことを伝えようとしているのだろう。そして神の言葉こそが、朽ちることのない種なのだ、喜びの種なのだ、あなたたちはその神の言葉によって新しく生まれているんだから、その神の言葉によって生きなさい、生かされなさいというわけだ。実は神の言葉にはそんな力がある、私たちの人生をしっかりと支え導く、そんな力があるのだ、神の言葉はいつまでも朽ちることなく私たちを生かす、そんな力があるのだ。
喜びと安心は実はもうここにあるのだ。どこか知らない所にあるのではなく、もう私たちの手許にあるのだ。その言葉をしっかりと聞いて、この言葉に生かされなさい、この手紙の著者はそう告げる。
私たちがしいかりと聞いていかないといけない神の言葉は、
「今までのことはいいんだ。わたしはおまえを、今でもたいせつに思っているよ、だけど、それはね、おまえがはこやボールをたくさんもっているからではないんだ。あるがままのパンチネロを、とくべつたいせつだと思っているんだよ。おまえはわたしの子。こころからあいしている。いとしいパンチネロや、そのことをおぼえておくんだよ」。(『ほんとうにたいせつなもの』マックス・ルケード著 フォレストブックス刊)
きっとそういう言葉だ。