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礼拝メッセージより
説教題:「御言葉を受け入れる」 2004年10月10日
聖書:ヤコブの手紙 1章19-27節
聞くこと
なかなか聞けない。人の話を真剣に聞くのはとても難しい。話しを聞くよりも話したい。しかし何で人はそんなに話したがるのだろう。
自分が話すことで相手を納得させたいとか、びっくりさせたいとか、その通りだと同意を得たいとか思う。結局は自分のことを解って欲しいということなのかなと思う。私はこんなに物知りであるとか、こんなに頭がいいとか、こんなに立派なんだということを知って欲しいと思う。あるいは、こんなに大変なんだ、こんなに苦しいのだというようなこともわかって欲しいと思う。そんなわかって欲しいという気持ちがあるから、私たちは一所懸命に話そうとするのではないかと思う。だからそれを受け止めてくれないとき、例えば自慢げに話したら相手の方が上手だったりする時とか、つい誰かの文句を言ったときにそんなこと言うもんではありませんなんて言われたりする時とか、自分はこんなに大変なんだと言うことに対して、甘えるなもっと大変な人もいるんだなんて言われたとき、ショックを受けてしまう。話しをするというのはやっぱり基本的には相手に受け止めて欲しいということなんのだろうと思う。
自分が話したいときには受け止めてくれ、聞いてくれと思うわけだが、問題は誰かが受け止めて欲しい、聞いて欲しいと思うときに自分がそれを受け止めようとするかどうかだ。自分は人の話しをろくに聞きもしないくせに、自分の話しはどうして聞いてくれないのか、なんてことになりがちである。
ヤコブの手紙は、聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにしなさい、という。話したいという思いを持つこと、わかって欲しいと思うことは自然なことなのだけれども、話すことよりも聞くことを先にしなさいということらしい。怒るというのも話すというのと似たようなところがあるのかもしれない。怒りを持つということも、自分から相手に向かって出て行くということであると考えると、話したいという思いと似たところがある。そしてその両者を遅くしなさい、と言うのだ。自分から発散するものは、すぐにそうするのではなくちょっと待て、というのだ。
反対に聞くということは相手を受け止めようと姿勢でもあるのだろう。そしてそれは相手のことを配慮する、また愛するということにもつながっているのだと思う。そっちの方を早くしなさいという。
待つこと
相手の話しを聞くということは、そこでじっと待っていないといけないということでもある。話すのは自分のペースでできることだが、聞くには待たないといけない。相手がいつしゃべり出すか、いつまでしゃべるのかわからない。だからその間待っていないといけない。それはとても大変なことだ。けれどもそれはまたとても大事なことなのだと思う。時は金なり、なんて言って今は兎に角時間をかけないように、かけないようにという方向に進んでいる。忙しい、忙しい、早く早くという風潮がある。それが大事な時ももちろんあるのだろうけれども、立ち止まって、じっくりと待つことが必要なこともいっぱいあるのだと思う。話しを聞くこと、怒りを持ってもしばしじっとしておくことはきっととても大事なのだ。待てないことから余計に怒りがわき起こることも多いような気もする。
そして御言葉をきくことにおいても私たちはもっともっと待つことが大事なのかもしれない。聖書を読んだからそこですぐに答えが出てくるわけではない。聖書を読んだらすぐに喜びいっぱいになることもあるだろうが、必ずしもそうとは限らない。本当はもっともっとじっくりと読む、あるいは美味しい料理をじっくり味わうように、もっともっとゆっくりと味わうことが大事なのかもしれない。
いつだったかテレビで、ある人がふぐ刺しを食べている場面があった。大きな皿にのせた薄く切ったふぐの刺身が出てきた。番組の内容はよく覚えていないけれども、ゲームか何かをしてあるお笑いタレントがその刺身を食べることができるようになった。そうするとその人は皿にのっている薄い刺身を箸で全部まとめて山のようにして一口で食べてしまった。勿体ないと思ってしまった。一口で食べようと少しずつ食べようと食べる量は変わりはしない、でもやっぱり食べ方で味わいは全然違ってくると思う。
でも御言葉を聞くとき、また祈るときも、私たちも結構山盛りにして一口で急いで食べるような仕方をしているんじゃないかという気がするのだ。じっくり聞くよりも、できるとかできないとかすぐ判断したり、祈りにしてもすぐに何かが起こることを求めたりすることが多いのではないか。
自分の心に御言葉聞こえてくるまで、私たちはもっともっと待つことが必要なのだと思う。
御言葉を行う
そして御言葉を聞くことと、御言葉を行うことはつながっているのだと思う。聞くことと行うことは別々のことではなく、一つのことなのだと思う。つまり、聞いた者は自然と行うようになるのであって、行いがないということは実は本当には聞いていない、聞けていないということなのだろう。
愛しなさいと言われている御言葉を聞いて、これは勿体ないありがたい言葉を聞けてよかったと思いつつ、周りの誰のことにも関心を持たない、誰のことも心配しないし大事にしない、なんてのはありえない話しなわけだ。御言葉を聞くことは、私たちの人生に御言葉というアクセサリーをつけるのとは違うのだ。御言葉を聞くというのは、そこで神に出会う、イエスに出会うことなのだ。私たちを愛している、私たちのために十字架にかかって死んだ、そのイエスに出会うことなのだ。お前のことが大事で大事でたまらない、というイエスに出会うことなのだ。御言葉を聞くと言うことはそのイエスに出会うこと、そしてそのイエスの言葉を聞いて生きていくことなのだ。そしてイエスは、私はあなたを愛している、だからあなたも隣人を愛しなさいというのだ。イエスの語る言葉は、それを聞いて自分が良い気持ちになる、ああよかったと思う、それだけの言葉ではないということだ。それを聞いた者を動かす力のある言葉なのだ。私たちはそんな言葉を聞いているのだ。行いがないとしたら、隣人を愛する思いがわき起こっていないとしたら、それなまだ御言葉の上っ面しか聞こえていないことなのだ。そして御言葉を聞いて行うことで幸せになる、とこの手紙は告げる。
私たちはえてして自分がりっぱになることで幸せになろうとする。神の言葉もいっぱい聞いて、いっぱい知って、こんなに偉くなったというふうに知識を積み上げることで幸せになろうとする。あるいは自分がこんなにりっぱなことをしてきた、こんないいことをしてきたという功績を積み上げて幸せになろうとする。でもそうやって自分の中にいっぱい溜め込んでも本当は幸せにはならないのだと思う。神から恵みと祝福をいっぱいもらっても、ただそれを溜め込んでいては幸せにはなれないのだ。その恵みと祝福をまわりに分けていくことで幸せになる。つまり御言葉を聞くだけではなく、それを行っていく、そこに幸せがある。ある時は隣人に与え、ある時は隣人から受ける、そんな風に恵みも祝福も喜びも悲しみも分かち合っていく、そこに幸せがあるのだ。
そこに幸せがある、だから御言葉を聞くだけではなく行いなさい、というのだ。まずは御言葉をじっくり、しっかり聞いていこう。