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礼拝メッセージより
説教題:「試みに耐える」 2004年10月3日
聖書:ヤコブの手紙 1章2-8、12-18節
喜び
試練に出会うときこの上ない喜びと思いなさい、とこの手紙の主は語る。具体的な試練の中身はよくわからない。最初の教会はいろんな迫害があったし、それでなくてもキリスト教会はまだまだ少数派であったのでいろんなことがあったのだろう。教会が社会に認知されない、多数派となっていないときには、教会に集まるということ自体が試練でもある。なぜ教会に行くのか、なぜ礼拝に行くのか、なぜキリストを信じるのか、なぜ神を信じるのか、いつも問われ続けている。今の日本でも同じような状況だろう。ほとんど大多数の者が教会とは関係のない生活をしている中で、教会に行くこと、キリスト者となることというのは社会の流れに逆らうような面があってとても大変なことだ。そんな中で教会に行き続けること、キリスト者であり続けることは試練の連続でもある。力ずくで礼拝に行かないようにさせられることはあまりないだろうが、何でそんなところに行くのか、神さまなんか信じて何になるのか、礼拝なんかに行かんでいっしょに遊ぼうよ、そんないろんな試練というか誘惑というか、そんなものに私たちもいつもさらされている。
でもこの手紙の著者は、いろんな試練に出会うときは、この上ない喜びと考えなさいというのだ。それはどういうことなんだろうか。この手紙では、信仰が試されると忍耐が生まれると書いている。なんで教会へ行くのとか、なんで神を信じているのと言われてはじめてどうしてなのかと考える。きっとその考えることが大切なのだろう。どうして教会に来ているのか、どうして神を信じているのか、自分の信仰はなんなのか、自分の生き方はなんなのか、それを真剣に考えることで初めて大切なことが見えてくるのだろう。その答えを神に求めることで大事なことを教えられるということなんだろうと思う。知恵の欠けている者は神に求めよ、と言われているのはその大事なことを神に教えてもらいなさいということなんではないかと思う。
だから試練に出会うことは喜びなのだろう。
内からの試み
この手紙で使われている試練ということばと誘惑ということばは原語では同じ言葉だそうな。ここでいう試練とはただ外から大変なことが襲ってくるということだけではないようだ。
ヤコブの手紙を見ていくと、神を信じると言いながら神の言葉を実行しない人、あるいは人を分け隔てする人、金持ちには丁寧に挨拶し丁重に扱うが、貧乏人はぞんざいに扱うというような人のことが出てくる。
ここでいう試練とか誘惑というのは、外からの迫害や差別されることということだけではなく、金持ちにこびを売ろうとしたり、貧乏人や身なりや態度の悪い者を見下してしまおうとする、そんな思いに引き摺られそうになること、そんな誘惑のことでもあるらしい。隣人を愛しなさい、と言われるイエス・キリストの言葉を実行させないようにさせる思い、そのような物が試練であり、誘惑なのだろう。
そんなことできない、と私たちはすぐに思ってしまう。簡単にそう言って聖書の言葉をかたづけてしまうことがある。そんなこと言われてもできないよね、なんて。聖書の学びをしているときに、すべてのことを感謝しなさい、という聖書の言葉が出てきて、そんなこと言われてもできないよね、と言ったら、そんなこと言ってはいけないでしょ、と言われた。その言葉を聞いていかないといけないと。そうだなと思った。できるとかできないとかは後回しにして、まずはその言葉をしっかりと聞いていかないといけない、聞き続けていかないといけないんだろうと思った。
あるいは大きな試練の一つがお金のことだろうと思う。教会でお金持ちを丁重に扱うというのも、この人を大事にしておけばいっぱい献金してくれるかもしれない、そうしたら自分はそんなにせんでもいいかもなんて思ってしまう。貧乏な人を大事にしたって教会の財政は豊かにならないなんて思う。そんな誘惑に私たちはさらされている。
あるいはまた苦しんでいる隣人がいるのに、それよりも自分の家の財政が苦しくなっては大変だからということで知らん顔したり、苦しい教会があるのに自分の教会のことばかり考えているなんてこともある。よその教会を助けたりしたら自分の教会がもっと大変になって、そうしたら結局自分がもっと献金しないといけなくなってしまう、だから他の教会のことまで考えたくない、なんて思う。そんな誘惑がある。会堂を建築するときにいろんな所からいっぱい助けてもらっても、建ってしまったら他の教会のことは余所事でしかなくなってしまっているのかもしれない。
主の晩餐
毎月の主の晩餐の時に、コリントの信徒への手紙一11章23-26節を読む。私たちの教会の主の晩餐は、イエス・キリストを救い主と信じてバプテスマを受けた人だけがパンと杯を取ることができることになっている。どうしてそうなのかという根拠が、コリントの信徒への手紙の次の11章27節のところにある、「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」というところだと聞いていた。だからバプテスマを受けていない者はパンと杯を受けるにふさわしくはないのだ、という何となく思っていた。
このコリントの信徒への手紙では、主の晩餐についての指示が11章の17節から書かれている。そこを見ると教会の中に仲間割れがあるようでは、いっしょに集まっても主の晩餐を食べることにならない、と20節で言われている。その理由は、21-22節の「なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。」ということだった。
当時主の晩餐をどのようにしていたのかはよくわからない。いっしょに食事をしてからしていたのだろうか。貧しくて遅くまで仕事している人たちがやってきた時には、早く来ている金持ちはすでに酔っぱらっているという有り様だったようだ。貧しい者たちのことをほったらかしにしてしまっている、同じ教会の者がまだ来ていないことに対しても、苦しい生活をしていることに対しても何とも思っていない、イエス・キリストを信じて喜びがあれば、それだけで満足、ただ自分と神との関係があれば他の人のことは関係ない、そんな有り様だったらしい。そういう人たちに対して、33-34節では、「わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。」と言う。
だからコリントの信徒への手紙を書いたパウロが言う「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者」とはそういう貧しい者たちのことを顧みない者、自分が満腹になれるかどうかということしか考えない、そんな者のことであって、バプテスマを受けてない者のことではないのだ。
共に生きる
自分のことさえよければそれでいい、自分さえ満足できればそれでいい、自分が貧しくなりたくない、自分が苦しみたくない、そんな誘惑にさらされている。でも本当はそんな思いでいることが結局は自分も周りの人も苦しめてしまうことになるのだろう。マザーテレサが言うように、「苦しみ、それはともに受け入れ、ともに担いあう時、喜びとなる」のだろうと思う。共に受け入れ共に担いあうために私たちは集められている。イエス・キリストの十字架の死によって私たちはすべてを赦されて、共に生きるようにと集められている。主の晩餐は、貧しく苦しんでいる者と共に生きようとしているかどうか、そのことを吟味するときなんだろうと思う。苦しみ悩み、また貧しい者と共に生きるというのは、自分も苦しみ悩み貧しくなるということなんだろうと思う。でも実はそこに喜びがあるのだ。共に生きることに私たちの一番の喜びがある。イエス・キリストは隣人を愛することが一番の掟であると語った。それは隣人のためにただ苦しい思いをしろということではなく、そこに喜びがあるからこそそう言われているのだと思う。
神の、イエスのそんな言葉を私たちももっと真剣に聞いていこう。そして都合の良いところだけ神の言葉を聞くのではなく、神の言葉を中心に生きていこう。それは試みや誘惑と戦うという面ではしんどい生き方かもしれない。けれ