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礼拝メッセージより
説教題:「和解」 2004年9月5日
聖書:創世記 33章1-20節
不安
おじのラバンの下を出てきて故郷に向かったヤコブは兄のエサウに会わねばならない。20年ぶりの再会だ。ヤコブは不安で不安でたまらない。兄がどんな気持ちでいるのかまるでわからない。
先に使いを出したところ、エサウは400人の者を引き連れてこちらに向かってきたということで、自分に攻撃をしかけてくるのではないかと不安でたまらない。そこで家の者も家畜も二つに分けて、一つを攻撃されても半分は残るようにされた、なんてことも書いている。
故郷へ帰るしかない、しかしそこには自分がだましたエサウがいる、不安で不安でたまらないヤコブは必死に祈った。ヤコブは多くの贈り物を先に行かせて、なんとかエサウに赦してもらおうとする。
エサウ
和解できるかどうか、それは偏にエサウにかかっている。エサウがどうでるか、どう思っているか、それが和解できるどうかの分かれ目だった。
エサウはもうすでにヤコブを赦していた。いつ赦す気になったのかそれは分からない。ここはヤコブとエサウの和解ではあるが、主役はヤコブよりもエサウではないのかという気がする。エサウが赦した、そこで初めて和解が成り立っている。
ヤコブがエサウの下から逃げ出して20年経っていた。その間ヤコブはエサウが赦してくれるかどうかわからないでいた。きっと赦してくれていないだろうと思っていた。だからおみやげをたくさん持ってきた。何とかして赦してもらおう、何とかして直接会って赦してもらおうと思っていた。つまりまだまだ赦してくれているなどとは思っていないわけだ。
ヤコブはその思いに20年間ずっと苦しんできたということだろう。家族から離れてそれなりにうまくいっていた。伯父にだまされて好きだったラケルとなかなか結ばれなかったということはあった。ラケルと姉のレアとの確執もありはしたが、財産も順調に増えていた。伯父の元にいる間は結構うまく行っていた。しかしエサウを騙し、そのことでエサウが怒っている、それはエサウをだました側のヤコブがずっと持ち続けてきた重荷だった。エサウからはきっと赦されることはないだろうという思いをヤコブはずっと持ち続けてきた。その重荷を彼は20年間ずっと持ったままだった。そしてその赦されないという気持ちはエサウに会ってからも残り続けていたようだ。
ヤコブはエサウに対して何度も何度も頭を下げる。そしてエサウをご主人様、自分を僕、と何度も何度も語る。エサウがヤコブからの贈り物を、自分は何でも持っているから必要ないと言ったけれども、受け取って貰えないと自分の気持ちが済まない、とでも言うように半分無理矢理に受け取らせている。そしてエサウが一緒に行こうと言うことに対しても、子ども達は弱いだの家畜の世話をしないといけないだのと、やんわりとそれを断ってエサウを先に返している。じゃあ、私の共の者を残しておこう、というエサウの申し出も断っている。
ヤコブは自分の贈り物をエサウに受け取らせた、けれどもエサウからの申し出は全部断っている。エサウはヤコブを赦していた。もうすでに赦していた。しかしヤコブはそのことをすぐに受け入れることができなかったのではないかと思う。ヤコブはその後もそのことをずっと引き摺って生きていたのではないかという気がする。いつまたエサウが怒り出すかわからないというような不安も持ったままだったのではないかと言う気がする。だからヤコブはエサウと一緒に行くことをしないで、エサウと一緒に住むこともしなかったのではないかという気がする。
案外エサウはそんなヤコブの気持ちが分かったから、贈り物も受け取り、自分と一緒に帰ることも無理強いすることもなく、先に一人で帰っていったのかもしれないと思う。
だからここの主役はエサウのような気がする。神の祝福を奪ったヤコブだった。その神の祝福は、エサウに赦す心を与えたということなんではないか。エサウの赦しによって、ヤコブはその後平穏に暮らすことができるようになった。
驚き
ヤコブはすでに赦されていた。しかしその赦しを実はなかなか受け止めることができなかった。
それは私たちが神の赦しを受け止めることがなかなかできない、ということと似ていると思う。
ヤコブが20年間、兄を騙したことによる重荷を背負い続けてきた。私たちも自分の過去にしでかした過ち、罪に苦しめられている。こんな私は赦されるわけがない、そう思って苦しんできた。しかしヤコブがエサウにすっかり赦されていたように、私たちの罪もすっかり赦されているのだ。イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪は神の前では帳消しになっているというのだ。ヤコブはエサウに会って、自分が赦されていることを知って重荷の多くを降ろした。私たちもイエス・キリストによって赦されていることを知ることで大きな重荷を下ろすことができる。きっとヤコブにも多少の不安が残っていたように、私たちもやっぱり不安になるようなこともあるのだろうが、しかしもう赦されているということは知っているということで、重荷は随分軽いものになる。
本当に私の罪は赦されるのでしょうか、戦争で相手を殺してそのことで苦しんでいる人が若い牧師に聞いたそうだ。戦争が終わって何十年もそのことで苦しんできたのだろう。
そんな苦しみから、自分を責める苦しみから私たちを解放させるために、イエス・キリストは十字架で死んで下さった。そして、あなたを赦す、あなたのあらゆる罪を赦す、そう言ってくれている。それは全く驚きの言葉だ。にわかには信じられないような言葉だ。しかし聖書は一貫してそのことを主張する。あなたの罪は赦されている、イエス・キリストにおいてあなたの罪はもうすでに赦されている、だからあなたは赦されている者として、赦されている者のように生きなさい。なかなか信じられない言葉かもしれない。しかしその言葉を繰り返し繰り返し、真剣に聞いていこう。