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礼拝メッセージより
説教題:「非難」 2004年8月29日
聖書:民数記 12章1-16節
出エジプト
旧約聖書の創世記には、神がアブラハムを祝福し、その祝福がイサク、ヤコブへと受け継がれていったことが書かれている。神は自分のことをアブラハム、イサク、ヤコブの神であるという言い方をよくしている。どうしてアブラハムを祝福したのかはよくわからない。特別立派だとか、特別信仰深いとかいうわけでもなかったようだ。イサクにしてもヤコブにしてもとても決して聖人君子ではなく、とても人間くさい人たちだ。
そのヤコブには12人の男の子がいたが、ヤコブが自分が好きだった妻から生まれたこどもを特別可愛がったということもあったようで兄弟同士結構仲が悪かった。そこで暗殺しようというような計画も持ち上がったりしたことなどもあったが、息子の一人がエジプトの総理大臣のような役職につき、イスラエル人たちがエジプトで住むようになった。
その後時代が降るとイスラエル人たちは奴隷として働くようになり、何とかしてくれと神に祈り、エジプトから脱出することになった。
モーセ
そこでエジプトを脱出するために指導者として選ばれたのがモーセだった。
イスラエルの民がエジプトを出てカナンの土地へ入るまで40年かかったという。そのイスラエルの民に神の言葉を取り次いでいたのがモーセだった。
けれどもモーセは神さまからこの務めに任命されたとき、私にはそんなことができない、誰か他の人にしてくれ、というようなことを何度も何度も訴えている。
なんとも頼りない指導者である。俺が引っ張っていくんだ、というようなところがほとんどない、自信もない。威厳もない、カリスマ性もない。ないないずくしのモーセだ。そんなモーセが主エジプトという世紀の大事業の指導者に選ばれたのだ。よりによってそんな人を選ばなくても、いう気がする。
不満
モーセは自分でもそんなことできない、そんなには向いてないと思っていたようだが、まわりからも指導者にふさわしいと思われていたわけではなかったようだ。
エジプトを出て約束の地であるカナンへ向かう途中、イスラエルの民は食料がなくなったり水がなくなったり、あるいはカナンへの偵察隊から、地元の人間は大きくて強そうだと聞かされると途端に、こんなところへこなければよかった、エジプトで奴隷をしてたほうがましだったと愚痴をこぼしている。そしてモーセに対しても、なんであんたは俺たちをこんなところへ連れてきたのかと責める。俺たちをこんな所で飢え死にさせるために引っ張ってきたのか、エジプトにいた方が良かった、エジプトで奴隷をしている方がまだましだ、そんなことをさんざんモーセに向かって語りかける。
神がエジプトで奴隷をしていたイスラエル人の嘆きを聞いて、彼らをエジプトから脱出させた。神がモーセに語りかけ、その言葉を民に伝えて出エジプトをした。なのに何でイスラエルの民はどうしていとも簡単に嘆くのか、こんなところへこなければよかったなんて言うのかと思う。よく考えると神の言葉を聞くのはモーセであって、民はモーセを通して聞くしかなかったようなのだ。直接神の言葉を聞くことがほとんどなかったから、何か不満が起こるとこんなところへ来たのは間違いだった、モーセの言う通りにしたのは間違いだったということになったのだろう。悪いことが起こるとそれをモーセのせいにするということが度々起こってきた。
エジプトを出て約束の地へ到着するまでに40年かかったそうだ。その原因は結局はこの民がなにかあるごとにモーセの語る言葉を信じることをせず、不満や不平や非難をモーセにぶつけてきたことだった。それは結局は神を信じないで、神の約束を否定することだった。モーセを非難するとき、モーセ自身はほとんど反論しない、口答えもしない。しかし神がそれに対して怒りを発する。
兄弟
今日の箇所ではミリアムとアロンがモーセの非難をしたことが書かれている。ミリアムとは、モーセが生まれたときにモーセを救った姉である。聖書の他の箇所では預言者という説明もある。アロンとはモーセの兄で、モーセが私は語るのは下手だからできないと言ったときにアロンがいるではないかといわれたように、モーセの口として民に語ってきた人だ。そしてイスラエルの祭司として任命されている人だ。
しかしその実の姉と兄がモーセを非難した。「モーセはクシュの女を妻にしている」。モーセは外国人を妻にしていることを問題にした。更に「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか」。何でモーセだけが偉そうに神の言葉だと言って語るのか、と言うわけだ。
弟の分際で何を偉そうなことを言うのか、あんな頼りない奴なのに、本当に神の言葉かどうか分かったものじゃない、あんなことは私たちだって言える、そんなことだったのだろう。モーセだって決して聖人君子ではない。非難しようと思えばいくらでも出来たのだろう。外国人を妻にしている、あんなだらしない奴の言うことを聞いていかないといけないのか、しかも俺たちの弟なのだ、そんな気持ちがミリアムとアロンにはあったのだろう。
しかしそれに対してもモーセは何も反論しない。そのことを怒った、憤ったのは主なのだ、神の方が怒ったというのだ。ミリアムはそのために重い皮膚病になってしまったという。モーセは姉や兄に怒るのではなく、アロンの願いもあり、やっぱりここでも神をなだめるのだ。
モーセが語ることを大事にしない、モーセを大事にしないということは、結局はそのモーセを立てた神を大事にしない、神の言葉を大事にしないということだ。ことある毎にイスラエルの民はモーセに文句をいい、非難してきた。それはそのままイスラエルの共同体の危機となった。ミリアムはモーセを非難することで皮膚病になった。
非難しようと思えばいくらでもあったはずだ。モーセ自身が、神から出エジプトをする指導者になるように言われたときに、私にはできない、そんな器ではない、自信がないとさんざんごねている。そんな弱さをモーセはいっぱい持っているのだ。そのことを非難しようと思えばいくらでもできるだろう。妻の問題だけではなかったはずだ。
しかしそんなモーセを神は選び、指導者として、神の言葉を伝える者として選ばれたのだ。神が選ばれた者を大事にしない、神の選ばれた者の語る言葉を真剣に聞かない、それは結局はそのものを選んだ神を大事にしない、そのものを通して語る神の言葉を真剣に聞かないということなのだ。神の立てた者を大事にしないことは共同体全体を大事にしないこと、そして結局は共同体の仲間同士も大事にしなくなり、自分自身をも大事にしないことにもつながっていくことだったのだろう。
教会
やっぱり牧師が元気じゃないと教会全体が元気がなくなる。牧師を元気にするには牧師よりもその家族を元気にさせないといけないだろう。特に連れ合いが元気じゃないと。そうじゃないと伝道なんてできんだろう。
教会に神が立てた牧師を大事にしましょう。こんなこと自分の教会では言えない。牧師だって完全無欠だから選ばれているわけではない。欠点だらけなのだ。つつけばいくらでもつつくところはある。罪深い、間違いだらけの人間なのだ。
つつくのは楽しいかもしれないが、そこからは何も生まれないだろう。
牧師は叩いて育てるものだと思っている人が教会にはいるみたいだ。いろいろ言う人がいた。牧師は何でもできて何でも知っている、何があっても動じない、きよく貧しく美しい者であるべきだと思っているような人がいた。最初は純粋だったから批判をそのまま受け止めていた。ここができてない、あそこができてない、なんていつも聞かされたいたらどんどん元気も自信もやる気も失せてきて、出来ることまで出来なくなってしまうようだった。
ある本にこんなことが書いてあった。「私自身、人の批判が役立って大きく成長させてもらったということは一度もない。・・・私が今まで批判した人が、それを契機として立派な人になったということは一度もない。」
批判やら非難やらをしたくなるのが人の常なのかもしれない。それじゃだめだとすぐ言いたくなる。分かったような顔をして言いたくなる。でもそれで相手が成長することはないと思う。牧師だって。それどころか、駄目だ駄目だというのは、なんでモーセばかりが神の言葉を語るのかと言うのと同じことをしていることになるのかもしれない。その結果は重い皮膚病であり、300キロか400キロかの道のりをいくのに40年もかかってしまうことになったということだ。
非難からは何も生まれない、そこからはきっと破滅に向かうだけだ。
私たちは非難するために教会に集められているわけではない。お互いを批判するために神さまに呼び出されてこの教会に集められている訳ではない。何かを成し遂げるために集められているのでもない。何かを成し遂げるために集まっているのでもない。愛し合うため、いたわり合うために集められている。
教会の目的は愛し合い、いたわり合うこと。
誉める
人はだれでも誉められることで成長する。いまだに牧師としてまがりなりにも説教できているのは、時々に誉められたからだと思う。神学部の先生や信徒の人に誉められたことがあるからできている。それがなかったら続けられなかっただろうと思う。他の人からは、どれだけ慰められてきたかあなたは知らないでしょうと言われた。
誉めるだけじゃだめだ、という意見もあるかもしれないが、放っておいても自然に非難するんだから、いつも誉めようと思っている位が丁度いいんじゃないかと思う。
お互いをいたわり合い、大事にし合う、大変さを分かち合う、そんな姿を見て新しい人たちも教会に続けて来ようと思うんじゃないかと思う。
神が立てたというだけで大事にする、神が集められたということだけで大切にし合う、いたわり合う、そんな教会が本来の教会じゃないかと思う。