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礼拝メッセージより
説教題:「遠大な計画」 2004年9月12日
聖書:創世記 37章1-11節
本当?
最近こどもの事件が増えてきたとかいう言い方をよく聞く。でも本当は殊更増えているわけではないそうだ。ただマスコミが印象的にそういう言い方をしているだけらしい。少年犯罪の件数は本当は増えてないと聞いたことがある。
どこかの国では、学校でマスコミの報道をただ鵜呑みにしてはいけないと教えていると聞いたことがある。テレビで偉い人が何か言っていたとしても、それだけで判断するのではなくて、それと違う人の意見も聞いて、それから自分で何が本当のことなのかを判断するようにと指導しているということだった。
日本ではイラクで人質になった時もそうだったが、あいつらは間違っているとテレビで放送されるとみんながなびいてしまって、クラス中で誰かをいじめるようにみんなで極悪人にしてしまうようなところがある。
同じようなことが教会でもある。聖書とはこういうもんです、聖書のここはこういうことを言っているんです、という決まった受け取り方をしていることがある。
バプテスト大会の時に、ガリラヤ湖でイエスと弟子の乗った舟が嵐に遭って、弟子たちは怖がって寝ていたイエスを起こして嵐を鎮めてもらったという箇所の話しがあった。その時実は舟は一双ではなかった話しがあった。勝手に一双だと思っていたけど、どうも違うらしい。聖書はよく見るといろんな発見がある。牧師が言っていたことと違うじゃないか、ということも多分いっぱいある。だから聖書は面白い。
アブラハム、イサク、ヤコブなど、聖書の中心人物は他の人たちよりも信仰深い人たちである、というようなイメージがあるのではないか。教会の中ではこの族長と言われる人たちも信仰深い正しい人たちであるから神さまに祝福されたと思っていた。でもよく聖書を読むと、信仰深く正しい人たちではなかった、優れた夫、優れた父親ではなかったようだ。
ヤコブの家庭も、今で言えば機能不全の家族といったようなものだった。もともとアブラハムの時代からいろんな問題を抱えていた家庭だった。
12人
ヤコブが父のイサクと兄のエサウを騙したために、ラバンおじさんのところへ逃げていたとき、ラバンの娘であるラケルのことが好きになり、ラケルと結婚するために7年間伯父の下で働くことになった。ところが7年間経ったとき、ラバンはラケルの姉であるレアをヤコブと結婚させる。結婚式は、夜新婦をヴェールで覆ったまま新郎の下へ連れて行くのだそうだ。父と兄を騙したヤコブがここでは伯父に騙され、本来好きでもないレアと結婚させられてしまう。妹を先に結婚させることはできないというのがラバンの言い訳だった。ラバンは、兎に角レアとの婚礼の祝いを済ませなさい、それがが終わってからラケルとも結婚させるという。一週間の祝いを済ませた後、ヤコブは本当に好きだったラケルと結婚する。レアとラケルはそれぞれジルパとビルハという召使いを付けられていた。
ヤコブは当然の如くレアよりもラケルを愛した。ところがラケルにはなかなかこどもが生まれず、レアの方には3人の男の子が生まれた。するとラケルは自分の召使いであるビルハにこどもを生ませようと計画し、ビルハは二人の男の子を生んだ。そうするとしばらくこどもが生まれなかったレアも、自分にはもうこどもができないようだと思って、自分の召使いのジルパに生ませようとして、ジルパも二人の男の子を生んだ。
その後こどもを生めないと思っていたレアは二人の男の子と一人の女の子を産んだ。その後になってやっとラケルも男の子を生んだ。それがヨセフだった。ラケルはその後にもう一人ベニヤミンという男の子を生むが、出産後に死んでしまう。
ヤコブの子ども達はそんな風に4人の母親の子ども達だった。そして父親のヤコブは自分の好きだったラケルが、結婚して随分たってからヨセフを生んでからは、殊の外ヨセフを可愛がった。ヨセフには裾の長い晴れ着を着せたという。それは王に仕える高官が着るようなものだったそうだ。
いろんな諍いがある母親たちだから、当然子ども達にもそれが影響していただろう。その上父親はヨセフばかり特別に可愛がるとなり、兄たちはヨセフを憎むようになった。当然の成り行きというか、元々はヤコブや母親たちがまいた種という気がする。
夢
ヨセフは、畑で自分の束がたちあがり、兄たちの束が周りに集まってきて自分の束にひれ伏したとか、太陽と月と11の星が自分にひれ伏したとか、いかにも兄たちや父までもが自分にひれ伏すというような夢を見て、しかもそれを当人である兄や父にもそのまま喋ったというのだ。
ヨセフは自分が兄たちから憎まれているということを知らなかったのだろうか。そんなことを言ったら兄たちが怒り出すということを想像できなかったのだろうか。
兄たちはそれを聞いてヨセフを殺してしまおうと相談するようになった。前々から自分達のことを父に告げ口していたり、一人だけ特別に可愛がられていたことがあったことから、夢の話しを聞いて我慢も限界にきたということだろう。
兄たちは羊を飼っている時に見回りに来たヨセフを、殺して穴に放り込もうと話しあう。しかし長男のルベンが命だけは助けようと言ったことで、ヨセフの着物をはぎ取って穴に投げ込んだ。その後外国の隊商にに売り飛ばそうと相談している間に、ヨセフはそこを通りかかった商人に引き上げられて隊商に売り飛ばされてエジプトへ連れて行かれてしまった。兄たちは雄山羊を殺してヨセフの服に付けて、野獣に噛み殺されたことにしてヤコブに報告した。
ルベンにとっては予定外だったろうけれども、他の兄にとってはヨセフを始末できて、ざまあみろという気持ちだったのではないかと思う。しかし父はヨセフが死んだと思って自分も死んでヨセフのところへ行こうと泣いて泣いて、というようなことになったらしい。生きていても、死んでしまっても、結局ヨセフ、ヨセフという父親を見ていると、兄たちはまたヨセフも父も憎らしく思うようになったのではないかと思う。
計画
そんなヤコブの兄弟たちの企みを神は利用したということなのか。後々この地方に大飢饉がおきるが、ヨセフはそのことでエジプトで大もうけをすることになり、それが結局は家族を始め、この地方全体の人たちを守ることにはなった。ではヨセフが信仰心篤い、完全無欠な人間であったかというともちろんそうではない。
信仰心が篤くて正しく罪がないからその人を神が祝福したわけではないのだ。正しく間違いを犯さないから神が守ってくれるというわけではないのだ。そういう人にだけ神が関わるという訳ではないのだ。
ヤコブも息子たちもいろんな間違いを犯し、いろんな人を傷つけている。人間が生きていく上ではほとんど仕方ないことだ。けれどもそんな者をも神は守り続けている。弟を売り飛ばしてしまおうというような人間のよからぬ企てをも用いて、神は神の計画を実行しているようだ。
失敗したり、挫折したりばかりの私たちの人生、そんな人生も神は神の計画のために用いることができるらしい。その計画はあまりに大き過ぎて誰も気が付かないようなものかもしれない。ヨセフがエジプトの高官になってみんなを助けるなんてこの時誰も分からなかった。
そんな大きな計画の中に私たちも生かされている。どんな計画なのか私たちにはすぐには気が付かないかもしれない。全部を知ることはできないのかもしれない。しかし神がその大きな計画の中に私たちを生かしてくれていることを知りつつ生きていくのと、知らないで生きていくのとは随分違った生き方になる。
新約聖書では、聖霊は「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事は益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマの信徒への手紙8:28)とある。
自分のしでかした過ちのために私たちはいろんな問題に直面しながら生きている。しかしそんな私たちにも、神の霊が、神の力が万事が益となるように働くのだ。だから私たちは神を見上げて、神に聞きつつ安心して生きていくのだ。