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礼拝メッセージより
説教題:「夢」 2004年8月22日
聖書:創世記 28章10-22節
失意
ヤコブは父と兄をだましたことから家を出なければならなくなった。そして母の兄ラバンのいるハランへと向かう。ヤコブのいたベエル・シェバはカナンの南の方にあるそうで、ハランまでは800km位あるそうだ。
神の祝福を手にいれたけれども、それ以外のもの、家族も財産も全部なくして出てきたといったような状態だった。将来どうなるのかという大きな不安をも抱えて、荒野をひとり旅をしている。いったいどんな気持ちだったのだろうか。祝福してもらったはずなのにこの有り様は一体何なのか、これのどこが祝福なのか、そんなことも考えたのではないか。父と兄をだましたことのつけを払わされているだと思って後悔していたかもしれない。そのために自分の人生がすっかり狂ってしまったと思っていたのだろうか。
天の門
そんなヤコブは石の枕をして眠っていたという。夜になると真っ暗闇になる荒れ野で寝ていたのだろう。いつ獣に襲われるかもしれないという恐怖も抱えて寝ていたに違いない。
しかしそんな時にヤコブは夢を見る。天まで伸びる階段、はしごという話もあるが、そこを天使が上ったり下ったりしているというものだった。そして神の祝福の声を聞く。
自分のしでかしたことで家族もなくし、なにもかもなくしてひとりぼっちになってしまったヤコブに神は祝福の言葉を語りかける。
ヤコブがここで頼ることができるのはこの神の約束だけだったのだろう。ヤコブが持っているものは神のこの祝福の言葉、約束の言葉だけだった。
しかしそれは何もかもなくしてひとりぼっちのヤコブにとっては何ものにも代え難いうれしい言葉だったようだ。たかが夢じゃないかと言われればその通りではあるけれど、その夢によって彼は神の祝福を知った、あるいは思い出したということだった。そしてそれはヤコブを一気に元気づけたようだ。
神共に
ヤコブは、まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった、これは神の家だ、ここは天の門だ、なんて言っている。
主がここにいる、神がここにいる、自分のいるこのところにいる、ヤコブはそのことに気が付いた。家族をだまして祝福を奪い取ったことで反対に何もかもなくし、ひとりぼっちになってしまったと思っていた。けれどもそこにも神がいてくれた、自分のところにも神が来てくれていた、天の門を開いて自分を神の家に招き入れてくれた、そんな思いになったようだ。
十分の一
ヤコブはよほど嬉しかったようで、枕にしていた石を記念碑としたり、自分に与えられたものの十分の一をささげます、なんてことを言う。神の家に招きいれたくれたから神の家を自分も支えていこうということなのだろう。家族をだまして祝福さえも奪い取った男だったが、こんどは自分から献げるというようになっている。それほどに嬉しかったようだ。
喜び
ヤコブはそれほどに喜んだ。しかし彼にその時与えられたのは神の言葉、神の約束だけなのだ。実際のものはまだまだ何も与えられていない。財産も妻も子もまだ何も持っていない。しかし彼には神の言葉だけで充分だというほどに喜んでいる。
ヤコブにとって嬉しかったのは、この土地を与えるとか子孫を与えるという約束よりも、もちろんそれもうれしかっただろうけれども、それよりも神が自分と共にいる、神が自分を見捨てていない、神が自分に語りかけてくれている、そのこと自体が嬉しかったのだろうと思う。
多くの財産や家族を与えられることも嬉しいことではあるが、それよりも何よりも神が自分と共にいること、神が自分のことを見捨ててはいないこと、自分のことをしっかりと見守ってくれていること、そのことこそがヤコブにとっての喜びだったのだろう。
きっとそれからのヤコブの歩みは違っただろう。何も持ってない状況は変わってはいない。ひとりぼっちである状況も変わってはいない。でもヤコブの心の中には神が共にいるという新しい希望が生まれ、そこから力がわいてきたことだろう。
私たちも自分のしでかした過去のいろんな失敗や罪のために苦しい思いをしながら生きている。人を傷つけたことで一番苦しむのは傷つけられた者よりも傷つけた側であることも多い。そんないろんな心の傷を刻みながら私たちは生きている。あの時ああしておけば、ああしなかったらと後悔することが山のようにあるのが私たちの人生だ。
けれどもそんな私たちにも神は、あなたと共にいる、いつもあなたと共にいる、あなたを決して見捨てないと語りかけてくれている。
その後ヤコブが聖人君子になったというわけではない。大勢のこどもを持つようになるが、自分が本当に好きだった妻のこどもだけを特別に可愛がるようなことをする。家族をだました人間が、また家族崩壊となるような原因を作ってしまう。祝福を約束されたヤコブであるが、相変わらず失敗もするし罪も犯す。神の約束をすっかり忘れるようなこともあったかもしれない。でもそんなヤコブを神は守り続ける。ずっと支え続ける。
大勢の人が集まる所ではよく迷子が出る。迷子にならないようにこどもが小さいときには親の手をしっかりと掴んでいる。興味があるものを見つけるとちょっと離してまたすぐに掴む。ところがときどき掴み直した相手が自分の親でないような時があって、そうなると恥ずかしさと不安でもう大変。
一番確かなのは、親に掴んでもらっていることだ。そうするとこどもは自分が手を離しても大丈夫。
ヤコブは自分が神に掴んでもらっているということをこの時知らされたのだろうと思う。
私たちも必死で神を信じ、必死で神にしがみついていないといけないわけではない。神の方が私たちをしっかりと掴んでいてくれている、神の方が私たちをしっかりと支えてくれているのだ。だから私たちも安心して生きていける。不安に駆られたままだと一歩一歩も不安定になる。次の一歩を支えられているという安心があることで初めてしっかりと歩くことができる。
神は私たちと共にいてくれる、だからこそ私たちもしっかりと生きることができる。やっぱり風は吹くし雨も降るような時もある。けれども神はどんな時でも私たちをしっかりと支えてくれているのだ。