前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
説教題:「祝福詐取」 2004年8月8日
聖書:創世記 27章1-45節
祝福
神の祝福は人間の思いを遙かに超えたところで引き継がれていくということらしい。
イサクは自分の井戸を取られると違う所へ行って新しい井戸を掘り、そこを取られると又違う井戸を掘りというような人物だった。平和的な人間と言えばそうかもしれない。しかしイサクの家族や家来たちにとっては何とも頼りない、信頼できない、そんなことでどうするんですか、というような人物だったことだろう。自分達一族の命に関わる井戸を取られようとするときに、喜んでそれを差し出すような人間はいないだろう。本当はイサク自身も、井戸を取られることに対しては相当な屈辱や敗北感を持っていたのではないかと想像する。それでも戦う自信もなく、争うよりは自分から退くような性格の持ち主だったのではないかと思う。イサクは自分の親族であるリベカと結婚したが、その結婚相手も自分が選んだわけではなく、父であるアブラハムが家来を自分の親戚の所へ行かせて連れて来てもらったリベカと結婚した。自分から積極的に出かけていく、欲しいものを遮二無二手に入れようとするようなことがまるでない人間だったらしい。平和的な人間というようりも、消極的ないわば男らしくない、と言われるような人間だったようだ。
でもそんなイサクがアブラハムに与えられていた祝福を受け継いでいた。イサクはアブラハムにとっては長子ではなかったわけだが、兄のイシュマエルは追い出されていたことから長子としての権利と祝福を受け継ぐこととなったようだ。
双子
イサクとリベカの間には双子が産まれた。兄がエサウ、弟がヤコブだった。二人は成長すると、エサウは巧みな狩人となり野原を駆け回っていたが、ヤコブは天幕の周りで働くようになった。
イサクは狩りの獲物が好物だったのでエサウを愛し、リベカはヤコブを愛するようになった。ある時、ヤコブが煮物をしていると兄のエサウが野原から疲れ切って帰ってきて、ヤコブにその煮物を食べさせてくれと頼んだことがあった。ヤコブは長子の権利を譲ってくれ、今すぐ誓ってくれ、ということを条件としてパンと煮物を与えたことがあった。
ヤコブにはそんなずるがしこい面がある。相手が空腹な時にそれをえさにして長子の権利を奪ってしまった。長子が家の財産を継ぐということが当たり前の時代であったわけで、その権利を一回の食事で奪ってしまったというのもすごい話しだ。もちろんそれで譲ってしまう方もどうかしているという気もするわけだが。
祝福
やがてイサクが年を取り目がかすんで見えなくなった時、エサウに祝福を与えようとしたのが今日の箇所である。
イサクは長男のエサウに祝福を与える前に、獲物を捕ってきて美味しい料理をつくってくれるように頼む。それを聞いたリベカはヤコブをそそのかしてイサクを騙してその祝福をだまし取る。一度祝福したことは取り消しがきかないということでエサウはヤコブ殺害を計画し、それを聞いたリベカはヤコブを兄のラバンの所へ逃がす。
何とも納得できない話しが書かれている。祝福が一つしかなくて、一度それを口にするともう変えられないことになっている。しかも、策略を用いてだまして得た祝福でも有効であるということになっている。そんなのがありなんだろうか。
祝福を手に入れたヤコブがその後順風満帆な人生を送ったかというと決してそうではなかった。
ヤコブはエサウから逃げておじのラバンのところへ行きそこで働くことになる。ラバンの娘と結婚することになるが、今度はラバンにだまされて好きではなかった姉の方と先に結婚させられてしまうことになる。しかもそのために結局は20年間も働かされる羽目になる。ほとんど我慢の限界がきて父のもとへ帰ろうとするわけだが、そこには自分が祝福をだまし取った兄のエサウがいるわけで、故郷に錦を飾るというわけにはいかない。兄がどう思っているか、帰ったらどうなるのか心配で、その心配をずっとかかえたまま帰ってくる。結局はエサウはヤコブのことを暖かく迎え、ヤコブの心配は杞憂に終わることになったが、ヤコブはその心配を20年間ずっと抱えたままでいたということなんだろう。
またヤコブにはイスラエルの12部族の祖先となる12人の子どもたちが生まれたが、好きではない方の妻から生まれたこどもや、妻たちの召使いから生まれた子どもなどもいた。その中でヤコブは自分の好きだった妻の生んだこどもばかりを可愛がったため、兄弟は母親の違いによって仲の悪い兄弟で、殺害を計画するようなありさまだった。
そんな風に、祝福されたからといっても、ヤコブの人生が何もかもうまくいったわけではない。兄と父をだましたことによって彼の人生はとてもつらいものとなった。母親のリベカも、自分の愛するヤコブを兄のところへ送ったのはいいけれども結局その後ヤコブと会うことは出来ずに死んでしまった。
ヤコブもリベカも、家族をだましたことの裁きを受けていると言ってもいいような人生を歩んだわけだ。家族はバラバラになってしまった。
けれども、そんなヤコブを神は祝福したということなんだろうか。イスラエル部族の祖先で族長言われるアブラハム、イサク、ヤコブである。イサクもヤコブもアブラハムの祝福を受け継ぐものとなっていったわけであるが、イサクもヤコブも長男ではない。イサクは兄が追い出されたことによって祝福を受け継ぐものとなり、ヤコブは兄をだまして受け継ぐものとなった。いかにも人間的な思惑と勝手なごり押しで祝福を手に入れてしまったかのようである。そんなのでいいんだろうかと思う。
結局は、本当はこの祝福を受け継ぐ者は、イサクでありヤコブであると初めから神は決めていたのではないかという気がする。もちろんイサクやヤコブがいい人物で信仰深いからそうしたとかいうのではなく、それこそ人間的に見れば神のきまぐれとしか思いようのない、ただ神がそう決めたとしかいいようのないことでたまたま神に選ばれたということのような気がする。ほとんどそうとしか思えない。イサクもヤコブも信仰深いどころか、肉料理が好きだからエサウを愛するとか、鍋と長子の権利を引き換えにしてしまうとか、食べ物によって人生を左右されてしまうそんな人間だ。人間の欲望とエゴがたっぷりな者たちだ。それでも神は彼らを祝福し、そんな人間を通して地上の氏族すべてを祝福に入れるという計画を持っているというのだ。そんな彼らをも神は支えていく。
彼らは自分の蒔いた種によって苦しい辛い人生を歩みことになってしまう。けれども神の大きな計画は彼らをも巻き込んで進んでいく。
私たちも自分の蒔いた種によって苦しむこともある。いろんな大変なことも経験している。しかしそんな私たちをも神の計画のなかに入れられているのかもしれない。
ローマの信徒への手紙8章28節には「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」とある。
あらゆることを神は益となるようにすることが出来るというのだ。あるいは自分の失敗によって苦しい思いをしているかもしれない。しかしそれさえも益となるように、その苦しいことさえも良かったと思えるようになるようにしてくれるということだろう。
大きな神の流れに私たちも招き入れられている。失敗したりつまづいたりしながら神の救いの計画に祝福に招かれているのだ。